叫哭は炎に消える
ハンネスの能力、『喧嘩』。その能力を打ち破るため、サルバドールは一路、仲間との合流を目指して走る。たとえ、その過程で敵の数が増えたとしても、サルバドール自身が能力を発動することができれば、勝機は見えてくるだろう。
「逃げ足の速ぇ奴……」
背後から聞こえる恨み節に、サルバドールはほくそ笑んだ。心の中で、諦めの悪い男であると、嘲った。
「貴方の慢心の招いた結果でしょうね」
「ムカつくなァ!? テメェ、もう一度、ぜってぇぶん殴るからな!!」
そうやって、振るわれる拳は、サルバドールの衣一枚を隔てて空を切る。そうしている内に、段々と、合流の時は近づいてきていた。
「おぉおぉ、すげぇやすげぇや。よぉく耐えるな、カイル氏ぃ」
「話しかけないでいただきたいッ!!」
凄まじい、糸というより綱のような力の塊の応酬。次から次へと、繰り出す盾も、展開した側から打ち砕かれる。その間隙を縫うように、細く鋭い糸が、カイルの身体を引き裂かんと襲いかかる。
(集中を切らしてはいけない……、ここをどうにかせねば、私の道も開かれないでしょうから……)
糸に触れれば最後、累々と積み上がった遺骸のそれぞれに、傷は一つだけである。つまるところ、ラーニャの攻撃は、一撃必殺であるということだ。その一撃だけで、命の根幹を正確に捉えて、断ち切るというのである。しかし、だからこそ、ラーニャの能力は、フェルディナンドとは相性が悪い。
それならば、フェルディナンドの能力を解放させてしまえばよいのである。
「……カイルーッ!!」
通りの向こうから、参謀の名を呼ぶ声がする。彼の上官、ハンネスである。彼は、混沌を煮詰めたような、醜悪な気配を身に纏った異形の人物、サルバドールを追いながら、カイルの名を叫び続ける。
「俺様の能力が切れる、逃げろぉッ!!」
「この状況では無理です!!」
話しかけるなとでも言いたげな、強い語調で、カイルは返す。その必死のかけ合いを、サルバドールは優越感に心を満たして、悠然と聞いていた。
(見えてきましたよ、もうそろそろですかね……)
恥を忍んで逃げることは、サルバドールにとっては屈辱以外の何物でもなかった。本来ならば、立ちどころに力を奪われていたであろう、破落戸体の軍人。彼の能力の効果が切れた時、サルバドールがすることは、一つと決まっていた。
「あっ、ヤベッ……」
ふっと、口を突いて出た、ハンネスの声。彼の能力発動の条件、すなわち、一対一の状況が崩れたことは、その反応から明らかである。
「……ようやく、ようやくですか!!」
既にハンネスは、何ら恐れるべきところのない、無能力の人間に同じだ。そうと分かってしまえば、後は雪辱を果たすのみである。サルバドールは、くるりと踵を返すと、自身の能力を発動させた。
「今の今まで煮え湯を飲まされていましたが、貴方の負けです。さぁ、往になさい」
サルバドールの掌上に発現した、濃緑色の、大粒の種。触れた相手に根を張って、その力を奪う。ハンネスによって封印されていたこの能力でもって、ハンネスを倒す。サルバドールの狡猾な性格から考えれば、当然ともいえる帰結だ。
軽くそれらを投げるだけでいい。そうすれば、この忌々しい人間は、土に還る。その一部始終を、舐めるように見てやろうと、サルバドールは目を細めた。しかし――。
「……馬鹿がよォ、本当に上手いこと騙されやがって!!」
倒れ伏すハンネスの景を想像していたサルバドールは、一瞬、理解が追いつかなかった。種を投げつけられたのにも関わらず、破落戸の生力は減衰する様子がない。肝心の種は、ハンネスのかざした右の手の中に、全て収まっている。
「な、何故、私の能力が効いていないのだ……!?」
「頭に血が昇って、俺様の言うことを鵜呑みにしたからだぜ」
サルバドールは、愕然とした。つまり、ハンネスの能力は途切れていなかったのだ。能力の範囲など、本人以外にはっきりと分かる者はいない。サルバドールは失念していたのだ。
「閣下、それをこちらに、フェルディナンド殿のところまで投げてください!!」
「あぁ、分かってるぜ!!」
歯を見せて笑ったハンネスは、力強く、手の中の種を、フェルディナンドを磔にしている糸の束に向かって投げつけた。
「……やっ、止めろッ!!」
ラーニャは、最悪の事態、つまり、フェルディナンドの解放の可能性に、覚えず、打ち震えた。しかし、種を止めるために放出される糸は、全て力を吸い取られ、役には立たない。やがて、巨大な幹のような糸の束に、種が触れた、その瞬間、幹は鳴動と共に、瓦解し始める。
「すげぇ力……、まぁ、俺様を殺そうとしてたんなら、当然こうなるよなぁ」
そう、他人事のように呟くハンネスに、怒りに我を忘れたサルバドールが掴みかからんとする。しかし、逃げている時ならまだしも、組み合ってしまえば、どちらに軍配が上がるかは、自明である。
なす術なく、サルバドールが組み伏せられる。それを眺めるラーニャは、自身の命運もまた、尽きようとしているのを、肌で感じていた。先程までの清涼な空気とは一転して、焼けつくような熱さが、身体を包んでいる。彼女の眼前、炎の中心で、フェルディナンドは苦笑いを浮かべていた。
「ヒカル氏は、大分躊躇ってくれたんだけどさぁ……。カイル氏、解放された俺をすぐに撃つって、中々ひどいねぇ?」
「それも作戦でしたから」
綱の応酬を受けても尚、カイルの表情はまったく崩れなかった。それは、胆力によるものでも、戦闘における実力からくる自信でもない。ただ、自分の計画を完遂するという、決意によるものであった。
(終わりだ……、捕まれば死。助かっても、フアナ様にきっと殺される……。あぁ……、あぁあ……!!)
何故、自分はどこで間違えたのか。叫哭の残滓は、炎の中へと消えていった。