揺蕩う黒き炎
普段ならば、何ということもないであろう鳥の羽ばたきが、まるで悪魔の去来を知らせるかのような不気味さでもって、降り注いでくる。シャルロッテは未だ、先の見えない森の中を彷徨っていた。
何故、ヒカルの隙をついて逃げ出したのか、歩き続ける彼女は、その答えを出せずにいた。自分自身の、錯綜した心象に、整理をつけることができなかったのだ。故に彼女は、無茶苦茶にかき混ぜられた、心中の混乱の濁流に押し流された、といった方が正しいかもしれない。
どこに行くべきか。このまま黒魔術師に見つからないよう、森の奥深くに向かうか。それとも、ユドゥマーレに戻るか。或いは、誰か腕の立つ人物を探して、黒魔術師の討伐に協力するよう、頼み込んでみるか……。
(俺は……、駄目だ。俺は、戦いなんかに巻き込まれたら、何もできなくなっちまう……。あぁ、兄貴……、俺は、俺は……)
自己嫌悪は、波のように寄せてきては、シャルロッテを森の深みへと追いやっていく。太陽の光が遮られる程に鬱蒼とした、森の奥深くが、もう彼女の目の前に、大口を開けていた。
(引き返したって、足を引っ張るだけだ……)
ヒカルたちなら、黒魔術師を倒し、自分の両親を救ってくれるかもしれない。シャルロッテは、しかしその想像の中に、自分を入れ込むことはできなかった。自分を、そこに組み込もうものなら、たちまちに勝機は消え去ってしまうだろうと、彼女は、そう考えていた。
(そうだ、家に帰ろう……。待ってればきっと、誰かがやってくれる。親父もお袋も戻ってくる……)
ぴたりと、足が止まった。この森では、元来た道へ戻ることもままならないだろう。一方では自分の無力に絶望しながら、他方、両親の帰還を座して待とうとする自分がいる。
あまりにも、虫がよすぎる。唾棄すべき考え方だと、シャルロッテは蹲ってしまった。戦うことが、もしも自分にとって不可能であったなら、戦える者に任せてしまえばよい。しかし、戦えるだけの能力がありながら、恐れのために逃げるのは、あまりにも身勝手すぎる。
(……やっぱり、できることをやろう)
シャルロッテは、枯れ葉の大地と向き合いながら、やっと自分の心中の混迷から脱する糸口を見つけた。立ち上がり、自分の歩んできた道を見返す。――途中に渡った川を辿って、海に出てしまえば、自分のおおよその位置も分かるはずだ。
靴が、ずぶずぶと葉を踏んでいく。足跡は力強く、彼女の進むべき方向へと、真っ直ぐ爪先を向けていた。
それから、どれ程歩いたか。シャルロッテは、歩けども歩けども到達しない小川のために、巨大な不安を抱きながら、足をひたすらに動かしていた。普段の彼女ならば、思い通りにいかないことに対する怒りが先行するであろう。しかし、今は、黒魔術師への怯えが、支配的であった。その恐怖から抜け出すためにも、川を辿り、海に出ることが急務であった。
(こんな森の中……。道を尋ねようにも、人がいる訳ないし、そもそも道がないし……)
同じような景色の中、ふと足元を見てみると、彼女の進もうとしていた方向に、規則正しい窪み、つまりは足跡が点々とついていた。同じような歩幅で、二列。自分は同じところを、ぐるぐると回っていたのかと、愕然としたシャルロッテが歩み寄っていく。
(あれ、この靴の跡、形が違う……?)
その靴跡を改めた彼女の懸念は、杞憂であった。二つの靴跡は、そのいずれも、彼女のものではなかった。
(でもまさか、こんなところに人が……?)
心当たりといえば、確かこの辺りの森は、魔術師や剣士が修行の場としているのだと、シャルロッテは思い出した。ともすれば、この二つ並んだ足跡は、その修行者のものであろうか。いや、しかし、また黒魔術師の分身が潜んでいるかもしれない。
シャルロッテは、意を決して、足跡を逆に辿ることにした。そうすれば、どこかの町や村に出ることができるのではないかと、彼女は睨んだのだ。
(それにしても、随分道の悪いところを通るな……)
これはひょっとすると、修行者かもしれない。フェルディナンドの話すように、黒魔術師たちは、効率に重きを置いている。このような悪路を選ばず、素早く、確実に行動できる方法を選ぶはずだ。
そんなことを考えていたシャルロッテの耳に、何かの音が聞こえてきた。人間の声のようにも聞こえるが、唸るような、籠もった音声は、何かの呪文のようである。魔術師だと、彼女は直感した。
茂みを掻き分けながら、その声の主のいるであろう方向へと、シャルロッテは進んでいく。近づくにつれ、火の粉の舞う音と、数人の人間の気配が、感じられるようになった。彼らは、森の中の開けたところで、焚き火を囲んで儀式を行っていた。
(よかった、あいつらじゃない、ただの魔術師だ……)
シャルロッテは、ほっと胸を撫で下ろすと、魔術師たちに話しかけるために、茂みから抜け出て、広場に足を踏み入れた。
(……!? 何だ、この感覚は……)
茂みから、完全に抜け出てしまって、シャルロッテは初めて、この場の違和感に気づいた。地面には、漆黒の塗料で魔法陣が描かれ、それを境界として、空気がまったく異なっている。鳥や獣の声は一切聞こえず、ただ濃霧のように、マナがまとわりついてくる。魔法に疎いシャルロッテにも、身体が重くなっていくのが分かる。
「はぁ、ようやく現れたか……」
「……ど、どういう、ことだ……!?」
集団の中心で、呪文を唱えていた男の言葉に、シャルロッテは困惑した。震えを必死に抑えようとしても、眼前の男の放つ、いいようもない気配のために、それは叶わなかった。
「簡単なことだ。能力者が来たことは、マナの流れを見れば分かる。だから罠を張って、おびき寄せた」
男は、声の調子を変えずに、機械的に言葉を紡いでいく。
「おっ……、おびき寄せて、どうするつもりだ……?」
シャルロッテの、上ずった声と対象的に、魔術師の声は、常に一定の高さで、感情を込めずに、ただ淡々と続いていく。
「決まっているだろう、我々の野望、闇の裁き人の顕現のため、犠牲になってもらうのだよ」
もし、この場にヒカルがいたとしたら、冷静さを保つことはできなかったであろう。シャルロッテと正対していたのは、つい数日前、魔術王国、サーマンダを襲った黒魔術集団、カリスの首領、アンリであったのだから。