密約
「仕方ない……。ここは、フェルディナンド殿を信じよう」
長い静寂の末に、アトラスはそう声を上げた。この情報の錯綜の中にあっては、信じざるを得ないといった方が正しいであろうが。
「ただし、信用はしないが……」
「でしょうねぇ。別に俺もここまでのことやっといて、されたいとは思わないんで……」
「…………むぅ」
フェルディナンドには、分かっていたのだろう。アトラスのような賢明な人物ならば、強大な敵と戦うためには、仲間割れなどしている場合ではないと判断するのだということが。だからこその、この物言いであるのだ。
「さて、じゃあシャルロッテを探しに行くかぁ。俺が戦ったら、ヒカル氏が燃えちゃうからねぇ、本末転倒だ……」
「あぁ、シャルロッテ殿はそのために連れておられたのですか……。ヒカル君の能力を確定させたい貴方たちにとっては、欠かせないという訳だ」
カイルの指摘に、フェルディナンドは、降参だといいたげな苦笑をこぼす。
密約も、軍部の思惑も、全て透けてしまった状況。先程の口振りから、全てを秘密裏に進めたかった彼にとっては、失敗だろう。しかし、軍部、ヒカル、ワルハラからの増援、黒魔術師、ギルド・メルクリウス、これらとのバランスを取りながら、事を成そうとしていた辺り、やはり、只者ではない。だからこそ、皆が彼を頼り、仕事を任せるのかもしれない。
「まぁ、今は黒魔術師を討伐することだ。そのための手段は、多い方がいい。……まして、相手の動きを制限できる能力なら、我々も大分、動きやすくなるだろうからな」
重々しく呟くアトラスに、皆は頷いた。そのための歩みは止める訳にはいかない。兎にも角にも一行はまず、討伐隊本隊に合流し、行程を調節しながら、シャルロッテを探すこととした。
森の中の宿営地には、ワルハラ、ヴェイルの両軍の兵士が、地面の見えない程にひしめき合っていた。ワルハラの群青の軍服と、ヴェイルの紅の軍服が、木々から漏れる太陽光にちらついて、目が痛い位である。
「こんなにたくさんの人が……」
「両軍合わせて、ざっと一千人といったところです。……ヒカル君は、ワルハラ軍の歩兵部隊を見るのは、初めてですか?」
カイルの問いかけに、ヒカルは小さく首を縦に振った。ヒカルが会ったことのある、ヨハンたち参謀本部の面々、ハンネス、カイルなどは、確かに指揮統率に当たる人間であるだけあって、仕立てのいい軍服に身を包んでいたのだが、ヒカルの眼前をせわしなく行き交う兵士たちの服も、多少は劣るものの、均質に、美しく仕上げられている。兵站の行き届いている証左であった。
「これだけの人数がいたら、きっと負けませんよね……?」
「……うぅん、それは分からない。ヴァイヴァルのマ厶レヒトゥスは五倍の敵を撃ち破ったし、ウルテナ公アイハルは、千人で五万の敵兵を撃退した……。歴史は、戦いが兵数で決まらないことを、如実に証明しています」
カイルの例示は、ヒカルには全く分からぬものであったが、しかし、勝つかどうかは分からないということを、遠回しに伝えているようであった。だが確かに、黒魔術師たちの戦闘能力に関しては未知数であり、ラーニャの作り出した分身の襲撃に対しては、不意を突かれたとはいえ、ヒカルはなす術なく敗走してしまっていた。これでは、いくら人数を集めたとて、勝負は全く分からない。
「だからこその、情報……」
ヒカルの呟きに、カイルは頭を掻いた。
「その情報源、我々はあの男に頼る他ないというのが、最も不安なのですよ……」
彼の目線の先には、ヴェイル軍兵士たちと談笑している、フェルディナンドの姿があった。
「我々は、ヴェイルの内情には暗い。だからこそ、彼は重要なのです。だのにあの男の態度は……。いいえ、この際ですから、軽薄には目を瞑ります。問題は、あの男がまだ何か、隠しているような気がすることなのです」
「これ以上が、あるんですか?」
カイルの予想が正しければ、あの男は一体、いくつの天秤を持っているのだろうか。その予想が正しかろうが、誤りであろうが、様々な思惑の結節点に、彼はいる。もしかしたら、彼には既に、勝利への道が見えているのかもしれない。しかしそれを、他人に教えようとは、彼はしないだろう。人より多くの情報を得て、自分が最大限輝ける舞台を作ることこそが、彼の目標であろうからである。
「ヒカル君、貴方は彼と行動を共にしていました。だから……」
「気を許すかもしれませんよね。……何かを知っているような素振りがあったら、カイルさんかアトラスさんに、必ず知らせます」
ヒカルが応えると、カイルは、ほっとしたような表情を現出させた。
「話が早くて助かりますよ。……私の上司と交換したい位だ」
その愚痴には、ヒカルは曖昧に微笑むことしかできなかった。
「よし、それでは我々はこれより西に向かいつつ、シャルロッテ嬢を捜索する」
アトラスの号令が、彼の立つ岩の上から響き渡ると、ワルハラ軍だけでなく、ヴェイル軍からも鬨の声が上がる。かくして一行は、西進を開始した。
(絶対に見つける。シャルロッテをきっと、両親に会わせてみせる……)
硬い靴音が、森を切り開いていく。ヒカルは、せめて彼女には、自分と同じような別離の時を過ごしてほしくないと、決意を固めたのだった。