払暁の空
闇の中を突っ切って、炎が、どんどんと自分の方に近づいてくる感覚に、廃墟で術を練っていたラーニャは、非常に焦った。自身が作り出した糸の先で戦闘があり、自身の分身が負けたのである。その一瞬の出来事に、彼女は咄嗟に口が利けなかった。
彼女が焦っていたのは、何もその敗北のためではない。ただ一重に、彼女たちを統べる黒魔術師であるフアナが、その失敗を許すだろうか、という問題である。
やがて彼女の掌上で、糸は燃え尽きた。あのフェルディナンドという男、確かに能力も魔法も使えないという報告であったが、それは嘘だったというのか。
「……失敗したんだ、ふぅん」
高く、冷たい声が聞こえ、ラーニャは全身の毛が逆立った。よく知る声、そして今、最も聞きたくない相手の声である。ゆっくりと振り向くと、そこには、冷笑を浮かべたフアナの姿があった。
「そ、それが……、あのフェルディナンドという男、能力者でして……」
「それ、言い訳にもならないけど」
自身の弁明が、瞬時に突っぱねられる。この有無を言わさぬ態度、既に彼女は、何かを決意したのであろう。
確かに、相手が能力者ではないと考えて、つまり油断して、ラーニャが対策を怠ったのは事実である。しかし、殺したはずの相手が復活するなど、想像できるであろうか。答えは、否、である。つまり、フェルディナンドと戦闘になった時点で、フアナの命に従うことなど、端から不可能であったのである。もちろん、その理由づけも、意味をなさないのであるが。
ラーニャは、地面に倒れ込むように、額を土に擦りつけて、許しを請う。
「お願いです、どうか、どうか私にもう一度機会をお与えください……。次こそは、次こそは必ずあの二人を葬り去って…………」
その言葉を紡ぎ終わるか終わらぬかの内に、地に這いつくばるラーニャの額に、強い衝撃が走る。何が起きたのか分からぬまま、勢いそのままにのけ反り、仰向けに倒れ込むと、その腹に続け様に、蹴撃が叩き込まれる。
口からは、泡と血と吐瀉物と――。そのラーニャに、何が起きたのかを理解できる訳もない。フアナは、相手が抵抗しないだろうということが分かると、すぐさま攻撃を加えようと考えたらしく、まず頭を蹴り上げ、そして振り上げた足を、そのまま叩き落としたのだ。言葉にすれば簡単なことだが、狼狽し、攻撃に対処できるはずもないラーニャにとっては、致命傷にもなりかねない。
「言い訳なんか聞きたくないの!! 失敗したならそれで終わり!! この愚図、愚図ッ、愚図ッ!! 死ねッ!!」
意識のないラーニャに、尚も加え続けられる攻撃。それを見かねた黒魔術師、サルバドールは、ゆっくりとフアナに近づいていく。
「……あぁ、フアナ様。それ以上はおやめくださいませ。ラーニャが死んでしまいます」
抑揚のない、まるで他人事のような調子は、フアナを刺激しないようにという彼の配慮だ。ただ、激昂しているフアナに対して、そのような気遣いは、ほとんど無意味である。
「ふふっ、ねぇ、何で私が、お前なんかの言うことに従わなければならないの?」
笑顔で振り向くフアナ、恐らくこの加虐行為を、心の底から楽しんでいるのだろう。サルバドールとしても、自分がその対象にさえならなければ、どうでもよいことなのだが、その理不尽な暴力が、計画に深く関わる仲間に振るわれるとなると、看過することもできなくなる。
「冷静に、お考えくださいませ。人々を弑するには、べコニーが自由を奪い、私が力を吸い取り、ラーニャが操り、そしてフアナ様がとどめを刺される。これが最も効率的な手法でございます。それを崩すことは、得策とは言えません」
フアナは、中空にあった足を、ゆっくりと地面に戻した。これ以上ない程に不機嫌そうな顔をしながら、サルバドールを指差して叫ぶ。
「……お前ら三人とも、全部終わったら殺してやるから」
「はぁ……、まぁ、ご随意に……」
サルバドールは、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、肩をいからせながら、向こうに歩いていくフアナを、物思いをしながら見送った。この場を外していたべコニーまでも、死刑囚の列に加えられたのは、不憫としかいいようもない。
(それにしても、何という苛烈さ。コクトー氏の交渉の件も、全く考えてくださっておられぬようだし……、本当に弑逆しか頭にないのだな、あの方は……)
「…………ぅあ、……サルバ、ドール?」
「お気づきになられましたか」
足元で倒れ伏していたラーニャの声に、サルバドールは胸を撫で下ろした。ここで死なれては、後々困ることになろう。
「まぁ、貴女の回復力は人間の比ではありませんし、休めばまた、裁きのために身を捧げられましょう」
「…………ありがとう、ございます」
さて、このような調子では、勝てる戦いも負けかねない。サルバドールはじっと黙りながら、これからどうしたものかと、腕組みした。東の方角を望むと、薄っすらと空が白んできているのが分かる。決戦の日は、刻一刻と近づいてきていたのだった。