脳内には嫌な想像
結局、ヒカルの操る馬車は、一度も止まることなく、朝を迎えようとしていた。車こそ粗悪なものであったが、馬はすこぶる元気のよいものである。疲労は蓄積しているはずなのだが、それを表には出さない。何やら、ただならぬ使命感を感じているのかのようで、従順に、ヒカルの指示に従っている。
夜の会話から、ぎくしゃくとした雰囲気が、馬車を包んでいた。馬が足を止めなかったことは、幸いであったといえる。
シャルロッテという人物――。彼女は、弱いという訳ではない。そのことはヒカルにはよく理解できる。家族を取り戻すために、フェルディナンドを通してヒカルに近づき、そして今、斥候として黒魔術師の討伐の最前線にいるのだから、弱いはずがないのである。
だが、内在する強さを表出させることができていない。そんなもどかしさを抱えているのは、自分と同じだと、ヒカルは思った。自分自身、刀を振るうことはできても、人を傷つける勇気がない。それを弱さと捉える人もいれば、並々ならぬ覚悟だと考える人もいる。道理である。そして、同じことは彼女にもいえる。黒魔術師を倒そうとする思いは、間違いなく本物だ。しかし、その黒魔術師を前にして、何らの行動をとれないということは、すなわち……。
「ヒカル……、止めてくれないか……?」
「えっ……、う、うん……」
唐突にシャルロッテに声をかけられ、ヒカルは肩を飛び上がらせた。そうしてすぐに手綱を引いて、ゆっくりと速度を落とす。
「昨晩、眠らないように水を飲みすぎたからかな……。すぐにすむから、待っててくれ」
催したのか、とヒカルは思い、ふっと反対の方向を向く。シャルロッテが茂みに入っていくのは、音と気配で分かった。
(……ん、待てよ……)
ふと顔を上げたヒカルの目の前で、木の葉が、音もなく落ちた。不安が胸に去来したヒカルは、急いでシャルロッテのいる茂みの方を振り返る。
――果たして、人の気配はない。
「……くそっ、俺はまたッ……!!」
慌てて御者台を飛び降りるヒカル。そう、まったく迂闊だった。鬱蒼とした茂みに飛び込み、どんどんと掻き分けていっても、彼女はいない。しかし、ところどころに枝の折れた先や、曲げられてたわんだ茎があるために、どの方向へ向かったのかは、おおよその見当がつく。
(くそっ、分かってただろ俺!! シャルロッテから目を離したら、きっとこうなるって!!)
仲間と共に四人の黒魔術師の、その内のたった一人の、しかも能力によって作り出された分身にすぎぬ存在に挑んでも、足を前に出せず、逃げることしかできなかった彼女が、次に何を選ぶのか。諦めたとしたら、迷惑にならぬよう、ヒカルたちの元を去る。自棄を起こしたとするならば、一人でも黒魔術師に挑むかもしれない。どちらにしても最悪の、単独行動による破滅が待ち受けていることは疑いない。
思えば、アテナを危篤状態寸前に追い込んだのも、ヒカルの不注意であったと、少なくともヒカル自身は、そう考えていた。その過ちを繰り返すまいと、そして、少しでも裁き人に近づこうとして、空回りの末に招いた結果がこれである。
そうして走る内に、ヒカルは、今、自分がどこにいるのか、一体どの方角から来たのか、まったく分からなくなってしまった。がむしゃらに、目の前にある痕跡だけを頼りに通ってきた道だ。フェルディナンドが、自らの命を危険に曝してまで続行させようとした斥候だが、中断せざるを得ないだろう。ともかく、シャルロッテを探し出すまで、引き返す訳にもいかぬ。
「いや〜ぁ、すっげぇ嫌な予感がするぞぅ」
同じ頃、黎明の陽光の中で、伝送鉱石を手にしたフェルディナンドが、ぽつりと呟いていた。理由はもちろん、馬車に残してきた鉱石から、応答がないことだ。
「走ってる音はすんだけどねぇ。何かあったんかなぁ、こりゃぁまいったまいった……」
「……そうそう軽口を叩いている場合でもないでしょう。一刻も早く、二人を救わねば……」
フェルディナンドの軽い調子を、咎めるように低い声が被さってくる。その声の主は、ワルハラからの援軍の第一陣を引き連れてやってきた、アトラスである。
「これでも俺は真剣だぜ、アトラス氏ぃ。それに、救出だろうが何だろうが、黒魔術師たちは待ってはくれないぜぇ?」
そう言いながらため息をつくフェルディナンドを、アトラスは睨みつける。
「そのようなことを言いながら、貴殿が何か裏で仕組んだ訳ではございますまいな?」
「……あぁ、そういう風に捉えてたんですかぁ」
アトラスは、未だにこの優男が信用できていなかった。ワルハラからの援軍を、手ずから迎え入れたのも、せめてワルハラ軍だけでも自らの指揮系統に入れて、決して権限を渡さぬようにしようと思ったからである。
しかし、その結果として、ヒカル、シャルロッテ、フェルディナンドの三人のみを送り込み、それを狙われてしまったのだ。この青年参謀に曰く、絶対安全の情報源があるということで、危険は避けられると思われたのだが、どうもその情報源の人物から、情報が漏れていたらしい。
ともなると、アトラスは嫌な想像をしてしまった。ヒカルを斥候として派遣させたのは、それすなわち、アトラスの手の届かないところで、ヒカルを我が物にしようとする、ヴェイルの陰謀なのではないかと考えていたのだ。この連絡の切断も、フェルディナンドの小芝居で、ヒカルはすでにヴェイルの管理下にあるのではないかと思っていたのだ。
(むぅ……、安全の保証はないとは言ったが、こんなことになるとは……。やはり、この男と協力することはできん……)
アトラスが、ちらりと様子をうかがうと、フェルディナンドもまた、心配を宿す、訝しげな表情を作って、突き合わせてきたのであった。