宿駅
ガラガラという音を立てながら、馬車は街道をひた走る。黒魔術師たちが、町という町を襲っている間、ヒカルたちはその距離を詰めるため、ひたすらに先を急ぐ。いつしか、辺りは夜の黒に染まっていた。
「よし、とりあえず次の宿駅で休むか」
あくびを噛み殺し、窓の外に通り過ぎていく、輪郭だけの木々を見ながら、フェルディナンドがぽつりと呟いた。彼が御者に合図すると、馬車の速度は遅くなって、やがて仄明かりの小さな宿の前で止まった。
「……エル、休んでる暇なんてない。先を急がなきゃ」
「んなこと言ったってさぁ、軍部と連携が取れなくなったら、俺たちゃおしまいなんだぜ? それに夜になったら、索敵が億劫だろぅがよぉ」
頭を掻きながら、困ったように言うフェルディナンドに、何やら納得のいかない様子のシャルロッテであったが、ややあってから、小さく頷いて、そのまま無言で建物に入って行ってしまった。
「ヒカル氏、あれをどう思うさ」
「客観的に見たら、不合理ですけど……。家族が巻き込まれているんですから、当然の反応だと思います」
「はぁーん、なるほどね……」
フェルディナンドは、夜闇を見つめながら、シャルロッテの反応と、ヒカルの思考を、反芻しているようであった。
誰だって、戦いを挑むのは、恐ろしいことなのだ。ましてその相手は、裁き人ではないものの、それに匹敵する不可思議さと、強力さを内在させているのだ。それにも関わらず、先を急ごうとする彼は、いわば、家族を思う気持の焦燥によって、敵の戦力を見誤っている、或いは正しく捉えていても尚、一人でも立ち向かおうという状況にあるのではないか、ヒカルはそう解釈していた。
「まぁ、いいさ。……ヒカル氏、今夜一晩、アイツのこと見張っててくれねぇか?」
「先走りかねない、そうおっしゃるんですね」
「そぅ。あぁ、話が早くて助からぁ」
ニヒルな微笑を浮かべながら、フェルディナンドは煙草に火をつけて、自分の世界へと潜っていった。その様子を見届けたヒカルは、シャルロッテのいる部屋を目指して、宿へと歩みを進めていった。
古びた廊下は、ヒカルが足を一歩踏み出す度に、大きく軋む。シャルロッテ程に勘の鋭い人間ならば、この足音だけで、彼を訪ねて誰かが近づいてきていることは分かるだろう。
「…………誰だ?」
突き当たりの部屋、扉をノックすると、警戒するような声音が聞こえた。
「ヒカルです。……入ってもいいですか?」
歪んだ窓に吹きつける風の音だけが、煩くこだまする沈黙。ややあってから、内側からゆっくりと扉が開かれた。
「何だよ、部屋は別でもいいだろ……。あと、敬語を使うな、仰々しい」
「まぁまぁ、そうおっしゃ……、言わずに」
「あぁ、クソやりづれぇ……」
彼の峻険な性格からして、平素彼は、孤独と共にあったのだろう。しかし、今のこの状況では、そういう訳にもいくまい。一人歩きでもされれば、お互いにたまったものではない。仲違いは、敵に利することになるのは、最早自明である。
簡素なベッドに腰かけたヒカルは、尚も落ち着かない様子で部屋の中を歩き回っては、窓の方をせわしなくうかがうシャルロッテを見上げた。
「えぇと……、休まないの?」
「……お前、休めると思うか」
ヒカルは、シャルロッテの真剣な瞳に、思わず気圧された。月明かりを背にした少年の瞳に、ユドゥマーレの貧民街で刃を重ねた時に見せた、狼の眼光が宿っている。
今、裁き人を語る黒魔術師は、メルエスの情報から推察するに、この宿駅から遠く離れた町を襲っているであろう。一晩で行き来できる距離ではない。故に、過度の緊張は、自身を蝕むだけである。
それが分かっていても、彼は休むことはできまい。件の黒魔術師の植えつけた不安の種は、彼の精神を、確実に取り込みつつあったのだ。
(そういえば、初めて会った時も、大きな恐れを抱いていたようだし、思い出すのも苦痛といったような様子だったな……)
「……お前の親は、十年前、本物の裁き人に拐われたらしいな」
思案に暮れていたヒカルは、シャルロッテの小さな呟きに、はっと顔を上げた。そのことを、彼に伝えた覚えはない。十年前の事件以来、両親は未だ帰らぬ。この別離を彼に伝えたらば、不安定な精神状態の均衡が破れかねない。そう判断し、今まではぐらかしていたのだが――。
「誰から聞いた……?」
「エルだよ、それ以外にいないだろ」
エル――、つまり、フェルディナンドが情報源か。しかしヒカルは、その青年参謀に対してもまた、あれこれと喋った覚えがないのだ。共に行動していたアトラスから伝わったのかとも考えたが、ヒカルの役職は知っていても、その過去までは知らないであろう。知っていたとしても、フェルディナンドを懐疑的に見ていたアトラスが、そうベラベラと話してしまうとも思えないのだ。
嫌な予感がする。失踪事件、裁き人を語る黒魔術師、そして、怪しげな青年参謀。ヒカルの中にあった疑いの種が、いよいよ芽を出してきた。
「……でも、手を借りない訳にはいかない。利用、そうだ、利用だ」
ヒカルの目的は、あくまで皇帝、イヴァンに実力を示すことである。強大な黒魔術師を倒すために、自分やシャルロッテの力だけでは不十分だ。自分を納得させるために、ヒカルは口の中でそう反復した。
「利用、か……」
「だから、シャルロッテ。せっかく協力するんだ、後先考えないで飛び出したり、しないでほしい。この状況を、最大限生かさなきゃ……」
真剣なヒカルの態度に、しかしシャルロッテは鼻を鳴らした。訝るように見つめるヒカルの視線に、真っ向から歯向かうように、彼は槍の穂先のような目を向ける。
「ヒカルだって後先考えずに、ワルハラに来たんだろ?」
「ちょ、ちょっと待て。俺は何も、考えなしに動いた訳じゃ……」
言い返そうとして、言葉に詰まる。まずい解釈をされた、とヒカルは思った。或いは、黒魔術師との対決が近づくにつれ、ヒカルの持つものでは対抗し難いのではないかという懐疑心が、シャルロッテの心中に首をもたげてきた結果であろうか。事件に巻き込まれたことで、不安定になった彼の心は、ヒカルたちから離れようとしている――。
ヒカルが黙考の末、言葉を紡ごうとしたその時、宿の窓にはめ込まれていたガラスが粉々に砕ける、けたたましい音が鳴り響いた。