溢れた紅茶
「方途は立った。これより西に向かいつつ、奴らの進路に合わせていく」
颯爽と乗り込んだフェルディナンドは、同乗する二人に対して、地図を広げた。紙上に置かれた彼の指は、ヴェイル王国の領土の中央付近を通る、緩やかな弧を描いて、やがて西方の小さな町で止まった。
「今は廃墟同然の町、アルカム。……メルエスの話が確かならよぉ、事件はこの町から始まったんだと」
それはつまり、裁き人を語る人間たちが、ヴェイル中をくまなく荒らし回って、そして再びそこに戻ってくるという可能性を示しているのだ。
「後発隊は、ヴェイル中央を陸路で突っ切って、このアルカムの町に集結させて、右回りに進ませるって訳さぁ。そうすれば、必ずどこかで出会うはずだぁね」
「でも、それじゃあ被害が増えてしまうのでは?」
裁き人を語る人間たちのところに、直接集めた方がよいのではないかと、ヒカルは思ったが、しかし、フェルディナンドは首を横に振った。
「いやぁ、準備の整わない内に襲われたら、たまったもんじゃあねぇ。それに、取り逃がしたら、いたちごっこになっちまうだろ?」
確実に、相手を倒さねばならない。フェルディナンドや陸軍の戦闘部隊は、肉を切らせて骨を断つというか、ともかくあくまでも慎重であった。
「でもな、相手は裁き人じゃねぇ、ただの黒魔術師さぁ。これは、勝算は十分にあるぜぇ?」
そう、嘯くフェルディナンドは、車窓から見える、既に小さくなった建物群を見返しながら、心の中で独りごちた。
(まぁ、難しい役回りだろうがな。上手ぁくやってくれよぉ……?)
「……行きましたね。ふぅ……」
町を去りゆく馬車を、ギルド・メルクリウスの長、メルエスは、自室の窓から、遠目に眺めていた。彼が手ずから淹れた紅茶は、既に冷め切ってしまっている。
(バレたらまずい……。嫌な綱渡りだ……)
これからのことを考えると、無性に腹が痛む。今までも、かなりのリスクを背負いながら、商いを続けてきたメルエスであるが、ここまで緊張したのは初めてである。
「ねぇ、貴方は客人に、お茶の一つも出せないの?」
突然、背後からかけられた少女の声に、メルエスは一瞬、自身の呼吸が止まったのではないかと錯覚した。窓ガラスの反射は、背後に彼女がいることを、否応なく理解させる。
「い、如何なるご用件で……?」
老商人がゆっくりと振り向くと、先程まで誰もいなかったはずの部屋に、可憐な少女がいる。しかし、開かれた目蓋の下から覗く目は、あまりにも冷たい。その冷徹な眼差しは、少女の姿に見合ったものとはいえない、何ともいえない異質さであった。居心地の悪さを感じ、逃げるようにティーポットに手をかけたメルエスに、少女は言葉を放つ。
「お前、喋りすぎ」
「…………!!」
短い金髪を掻き撫でながら、少女、フアナはニタニタと笑う。焦ったような面持ちで、後退るメルエスを、嘲笑うかのように。
「どうしてくれるの? 私たちがやり辛くなっちゃったじゃない」
震える手で、ティーポットを置き直したメルエスは、しどろもどろになりながら、訥々と語る。
「しかし……、ある程度の本当の情報を流さなければ、信頼を得ることもできません。……九割の事実と一割の虚構でもって、相手を手玉に取ることは、我々の世界では常道でございます」
「ふぅん……」
「それに、首尾よく馬車から魔法具を取り外すことができましたから、奴らの行動は、簡単に把握できるはずです……」
「…………へぇ」
フアナが目を逸らし、威圧感が幾分か薄れる。ほぅ、とメルエスがため息を一つついた。その気の緩みを、彼女は見逃さなかった。
次の瞬間、メルエスは壁に叩きつけられるような衝撃を受ける。口内を切ったか、肺から押し出された空気と共に、血が床に滴り落ちる。いけない、フアナは、能力を発動させている。そう感じたメルエスは、迫り来る死の気配から逃れようと、身を捩りながら、必死に弁明する。
「お、お願いです。糧食でも武器でも、何でも提供します。協力も惜しみません。ですからどうか、命だけは……っ!!」
涙ながらの命乞い、それは彼女にどう映るだろうか。しかし、そうするより他ない。メルエスは、自身の首元に、不可視の刃が打ち落とされようとしているのを、肌で感じていた。何としても生き残らねば、自分の目的が果たせない。
「貴方の命一つで、どうにかなるのかい?」
「私は、こ、これでも町内で一二を争う商人です。必ずや、必ずやお役に立ちますので、どうか……」
無言で見つめるフアナの瞳、その奥で、彼女は一体何を考えているのか。メルエスという人間を虐殺する快楽と、彼を生かしておけば得られる利益とを、秤にかけているのであろうか。
「うわっ……!?」
身体が軽くなり、手足が壁から離れる。束縛から開放され、床にその身を投げ出したメルエスは、直後、鈍い音が響いたのを聞いた。音の正体は、壁にめり込んだ不可視の刃であった。彼女の気変わりがなければ、間違いなく、老商人の首を断つ軌道であった。
「はぁ、はぁ……、お、お助けいただき、ありがとうございます……」
そう言って、顔を上げたメルエス。しかし、既にその部屋にフアナはいなかった。倒れたティーカップから流れ出した紅茶が、床を濡らすばかりであった。