青髪の少女
(よかった、気を失っているだけか)
僅かに上下する胸を見て、イヴァンは、安堵のため息をつく。内心、龍を吹き飛ばした衝撃で死んだかもしれないと思っていたが、杞憂であった。これ程の力のある者が簡単に死ぬはずもないが。
それにしても、と改めて少女の全身を観察する。雪山に住んでいるとは思えぬ程の薄着。指はしなやかで傷がなく、肌が荒れた様子もない。この環境にいるはずもない人物、というのがイヴァンの第一印象であった。
「カスパー!!」
鋭い声に、カスパーが慌てて向かってくる。彼もまた能力者であるので、違和感には気づいていた。
「この少女は……、まさか龍を倒したのは彼女ですか!?」
「分かっているだろう、カスパー。保護するんだよ」
イヴァンが振り向くと、カスパーはすでに暖かそうな毛布を持って立っていた。当意即妙の具現のような男である。
列車の中で、少女は皇帝の寝台に横になっている。皇帝の調度を使うという栄誉を、眠りながらに受けているためか、どことなく高貴さを漂わせる顔立ちである。
「この路線は幾度となく通っているはずだ。カスパー、今までこんなに強い能力者、いたかな?」
カスパーは、首を横に振る。仮にいたとしたらば、すぐにでも報告していた。ともすれば、彼女はこの山で暮らしてきた人間という訳でもないらしい。
「しかし、どこから来たのでしょう。見た限りでは、斜面を滑り落ちてきたようでしたが」
線路は山の斜面に張りつくように伸びている。その山側の斜面には、連続した凹みが。つまり、少女が山の上の方から転がり落ちてきたことを意味していた。
「服装こそ平民のようだが、なんだろうね、この雰囲気は。まぁ、素性はどうであれ、能力者であることに変わりはないのだけれど」
そんな会話をしている内に、少女の瞼が微かに動いたのを、カスパーは見逃さなかった。少女は小さな声を上げて、ゆっくりと目を開けた。
「…………ここは?」
第一の疑問を口にしながら、少女が身を起こす。しかし、流石に先程の衝撃が身体に悪い影響を与えているようで、すぐに頭を押さえてふらつくのを、カスパーが優しく抱き起こす。
「はじめまして。僕はワルハラ帝国のイヴァン、そして君を支えてくれているのは、僕の執事のカスパー。そして、ここは僕の列車の中。……さて、君の名前は?」
ゆっくりと、伝えたいことを全て言い切って、イヴァンが微笑む。その笑みに応えようと、少女は口を開きかけて、はたと気づいたように再び口を閉ざした。
「君、もしかして名前を……」
少女は、照れているのか、困惑からなのか、或いは別の感情なのか、力なく笑って頷いた。
イヴァンは、便宜的に彼女をアテナと呼ぶことにした。彼の愛読書であるワルハラ古典集において、帝国の始祖たる聖・フロプトが残した古代の詩に登場する、都市と民衆の守り神の名である。外敵を退ける絶対的な力があるため、というより、ただ単に、本の挿絵と彼女が似ていたためである。
アテナと名づけられた少女は、舌の上で自身の新たな名を転がしている。数回、小さな声で唱えられた『アテナ』の響きに、アテナは満足したようである。
「しかし、名前も家も覚えていないとは。そもそも何故、アテナ様は雪山の只中にあのような軽装で」
カスパーの疑問はもっともであるが、彼女自身が覚えていないため答えようもない。
「でも、何かから逃げてたような記憶があるんてす。追われ続けて、開けたところに出たと思ったら……」
記憶の壁にぶつかったアテナは、頭を押さえて苦悶の表情を浮かべる。その感覚が確かだとしても、何に追われていたかまでは分からない。
「とにかく、雪山に放り出しておく訳にもいかないから、僕が君を保護しよう。カスパー、食事の準備は大丈夫だよね?」
イヴァンの、否定することを許さないような語調に、カスパーは首を縦に振るしかなかった。物事は、イヴァンの思うままに動いている。憂鬱を吹き飛ばす舞踏会に参加した上に、能力者という土産を得た彼に、不如意はないのかもしれない。
その後は、これといった事件もなく、無事にノアキス王宮に到着した。イヴァンは、アテナのことをカスパーに任せ、一人で王宮に入っていった。
犯すべからざる純白の神域、王侯以外が入ることを禁じられた最奥の部屋に、王侯が集まっているのだ。ノブに手をかけると、ざわめきが伝わってくるようだった。その部屋の中央に配された円卓には十数人の人間が座して、各々話し込みながら、いまだ到着しない王侯を待っていた。
「遅かったですね」
部屋に入ったイヴァンに、咎めるように語りかける者がいる。ノアキス王国の国王にして、諸王侯会議の議長を務めている、少年王ことフェリクルスである。桃色の髪を長く伸ばした、まるで童女のような造形。しかし、曲者ぞろいの王侯の中心にいて、それらをまとめ上げているのだから、その容姿を話のタネにする者もいない。
「君のところのズーニグリに遭遇してね」
「そうですか。彼女は動きが遅いですから、どいてくれるのを待つのも退屈だったでしょう」
「いや、切り伏せたよ」
まぁ、とどめを刺したのは僕じゃないんだけど。と心の中で呟く。イヴァンがさらりとズーニグリ討伐の事実を口にすると、座の面々から感嘆の声が漏れた。この場においては、どの王も平等。とはいえ、イヴァンや、今回の会議を開かせたルードヴィヒなどは別格である。フェリクルスは、一瞬言葉を失い、呆れたような表情を浮かべた。
「かわいそうに。貴方が襲わなければ、もう少し長く生きられたでしょうに」
先にしかけたのはイヴァンである。そう言われても仕方ない。返答に困ったイヴァンは、会議の面々を見回し、話題をすり替えた。
「……ところで、ルードヴィヒとリヒャルトはまだかい?」
リヒャルトは、この会議を計画した人物の一人であるカタリナ皇太子の祖父にあたる人物である。齢八十七にして矍鑠としている、抜け目のない老人だ。
「遅刻してきた貴方が言えることではありませんがね。あとその二人がくれば会議を開催するのですが……」
その時、扉が勢いよく開いた。




