一発逆転 勝負あり
床に倒れ込んだヒカルは、そのすぐ横で、自分と同じように縛られたアトラスの苦しげな表情を見てとった。ロープは、身体に巻きついた時の靭やかさを失い、元の石と同じように固くなっている。これは魔法か、はたまた、何かの能力なのか……。
天井の人物は、闖入者を縛り上げて尚、無言である。だが、自由を奪ったことを確認すると、その高い梁から飛び降りてきた。
それは、短い赤黒い髪の、背の低い人物だった。長い前髪は、右の目を隠す程に伸び切っており、その身体も、服も、垢にまみれていた。劣悪な生活環境の証左であろう。しかし、ヒカルとアトラスの自由を瞬時に奪い取る程の手練である。その人物は、倒れ伏す二人に一瞥をくれると、すぐにフェルディナンドに向き直った。
「おま、お前はホントにやべぇよぉ。てか、何で俺までやられにゃいかんのさぁ……」
「……油断大敵だから」
小さな声で、その人物は呟いた。彼のポケットに突っ込まれた手が小刻みに震えるのを、後ろから眺めていたヒカルは、この人物が、自らに降りかかりかねない脅威に、かなり敏感になっていることを察した。裁き人を名乗る者たちの事件に巻き込まれたからなのだろう。
「それは結構だけどよぉ、あの人たちは客人だぜ……。解いてやってくんねぇ?」
「証明しろよ」
「俺が言うから間違いねぇだろうがよぉ……」
その人物とフェルディナンドは知り合いであるようだったが、どうやらこの参謀が考えるより、両者の信頼関係は築けていないようであった。
「だから、こいつが裁き人を破る切り札なんだって言ったじゃねぇか。何でそんな疑うんよぉ?」
「俺にやられる位だ、エルは、俺がそんな奴、頼ると思うか?」
「あぁ、いや、……無理だねぇ、うん」
諦めないでくれよ、とヒカルは心の中で叫んだ。嘘を吐くなら、いっそ突き通してほしいものだ。兎にも角にも、中途半端に終わる嘘は、最悪である。信頼も何もあったものではない。
このままでは殺されるかもしれない、そう直感したヒカルは、身体を捩ってみた。しかし、硬化した縄は思った以上に頑丈で、動かせる箇所はあまりに少ない。それでも移動ができぬ訳でも、手が動かせぬ訳でもなかった。ヒカルは、手近な小石を掴むと、階下に向けて投げつけた。
ゴトン、と鈍い音がして、フェルディナンドと話していた人物が、はたと顔を上げた。間違いなく彼の頭には、裁き人を名乗る者がちらついただろう。例えそうでないにしても、いきなりヒカルたちを縛り上げる位に警戒心が高まっているのである。見回りをしないということは考えられない。
そして案の定、その人物は脇目も振らず、階段を飛び降りるようにして下っていった。それを呆然として見つめるフェルディナンドだったが、直後、ヒカルの意図に気づいて、助けに駆け寄ってきた。
「フェルディナンド殿、これはどういうことです……」
「いや、アイツが神経質になってるのは分かってたんだけどなぁ……。まぁいいか、怪我すんなよぅ」
そう言うとフェルディナンドは、大きな瓦礫の塊を掴み上げると、一息に二人に巻きついた石の縄を叩き割った。ばらばらと溢れていく石の欠片を振り払ったヒカルは、手すりから身を乗り出して、その人物を注視した。何もいなかったということを、念入りに確認したその人物は、ヒカルが縄目を解かれたことに気づくと、血相を変えて階段を駆け上がってきた。
再び投じられる石、しかし、同じ手は二度は食わない。素早い抜刀で、廊下の奥へと弾き飛ばす。
「おいおい、刀なんか抜いたら、いよいよ信頼されねぇぞ」
「…………いや、違う」
ヒカルは、強さを見せつけることが、そのまま信頼を得ることにつながると考えた。裁き人を名乗る者に対抗し得る者が現れた時、初めて信頼感が芽生えると、そう思ったのである。
「アトラスさん、ここは俺一人でやります」
「……分かった、無茶はするなよ」
階段を駆け上がる人物は、腰に提げていた、短いナイフを抜いた。臨戦態勢である。その得物の長さから察するに、距離を極限まで詰めて、相手の懐に潜り込んで倒すというのが、彼の戦闘法であるらしい。ならば、そこに踏み込ませないよう、注意して立ち回ればいいだけの話である。
「……シッ!」
だが、彼の持つナイフに気を取られていたヒカルは、もう片方の手に握られた石に気づくのが遅れた。闇雲に振り回されるナイフの斬撃の合間を縫うように、石が三度、投じられる。
(そこまで石の攻撃に固執するのか、じゃあナイフは虚仮威しか……?)
石は空中で、その姿を変える。鉤爪のように伸びたそれは、ヒカルの喉笛めがけて迫り来る。ヒカルは刀の柄でそれを防ぎ、ナイフの攻撃をいなす。
戦況は互角、しかしヒカルは防戦一方。中々勝機が見えてこない。戦いが長引くと、この場所について多くを知る、相手の方が有利である。どうすればいいのか――。
「くそっ、強い……!!」
突然、踵を返して廊下を逃げるヒカルに、敵も、アトラスもフェルディナンドも、唖然として動けない。だが、この建物の構造を知らぬヒカルにとって、逃げることは負けを意味しているはずである。
「まずいな、下手に動き回ると……」
廊下を走るヒカルの姿が、乾いた音と共に消える。腐食した床が抜けたのだ。あまりに呆気ない、ナイフをしまい直した人物は、ため息をつき、転落したヒカルとの勝負にけりをつけようと、穴から飛び降りた。
「…………!?」
しかし、彼を待ち構えていたのは、怪我一つせず、刀を構えるヒカルであった。既に抵抗不可能の間合いに入っている、一発逆転、勝負あり、であった。