貧民街の痴態
フェルディナンドは、軍の建物を出ると、まっすぐ市街に抜けていった。彼の進む先は、ヴェイルの王都の外周部、中下流の社会層の人々が住む地区であった。豪奢な建物は見当たらなくなり、やがて石畳の隙間の雑草が目立つようになった。次いで、崩れた塀の割れ目から、野犬が顔を覗かせるところまで来た。浮浪者と怪しげな風体の旅客は、路傍の石と木片でもって賭けに興じ、酒臭い男が飯場から出てきた途端に喧嘩に巻き込まれる。目の前を横切る石は、諍いのために女が投じたものであった。
「フェルディナンドさん……、ここは……」
「ヴェイル王国の王都、ユドゥマーレの恥部さぁ。王都に似合わん者、行き場のねぇ者、追われた者が寄せ集まって生きてる」
これが、あの華やかな王都の一部であるのかという衝撃が、ヒカルの胸を打った。国王は、この状況を改善しようとは思わぬのだろうか。
フェルディナンドによれば、ヴェイル国王のクロードは、このような社会の底辺層に対しては微塵も興味を示さず、放っておいているということだった。ワルハラや、ヒカルの故郷である倭国では、そのようなことは少なかったのだが、現在、各国ではむしろ、このような状況が主流であるという。
「何故これを放っておけるんですか……?」
「単純だ、こいつらがそこまで大事じゃねぇ。国王は、国内の資本家、政治家、有力軍人を優遇して、効率よく国を動かそうっていう算段なのさぁ」
それは、目を、耳を疑うような現実であった。ここまで格差の広がった、歪んだ世界の実情は、しかもこの戦時において、さらに厳しいものになりつつあった。皺寄せは、いつも彼らのところにやってくる。
「結局、何かあったら切り捨てらぁれる、端数なんだよこいつらぁ。まぁったく、お国も無茶苦茶だよなぁ」
そう、べらべらと述べ立てるフェルディナンドを、住人たちは鋭く睨む。まぁ、誰であっても、自分の生活を話題に挙げて、とやかくと言う人間を快くは思わないだろう。しかし、ここに長くいるのは、ヒカルにとってもアトラスにとっても、居心地の悪いことであった。
「あの、その目星をつけた者は、一体どこにいるのですかな?」
心配そうに尋ねるアトラスに、青年参謀は指を差して、この地区にしては大きな建物を示した。
「何でも、両親が消えて逃げてきたって話だぜ」
フェルディナンドは、そう言って目配せした。
その建物は、灰色の空を背景とし、黒々としたシルエットを晒している。塀は崩れ、庭には丈の長い草が生えて荒れ果てているものの、ところどころに残る装飾は、王都中心部のそれに勝るとも劣らないものである。その建物の三階、端の窓から、煌々と燈りが漏れ出している。不規則な光度の変化、揺らぎは、魔光燈のものではない、恐らく蝋燭の火だ。ヒカルは、その部屋に、目的の人物がいるのだと悟った。
「ところどころ、床が腐ってっから。俺の歩いたところ以外、通るなよぅ」
そう言うとフェルディナンドは、スタスタと歩き出した。その速度は、外の道を歩いていた時と、ほぼ変わらない。それ程までに見極めが上手いのかと、ヒカルは感心した。そんなことを考えている内に、燈りのあると思しき部屋の前に着いた。
「ほら、ヒカル氏、お入んなさい」
「……? 何でフェルディナンドさんが開けないんですか」
「やだ、俺コワイもん……」
そう口走って、しまったという顔をする青年参謀は、何かを考え込むように手を揉んでいたが、ため息をついて取っ手に手をかけた――。
突如として大きな物音が響き、フェルディナンドが弾き飛ばされるようにして、派手に転倒する。あまりに一瞬のことで咄嗟に対応できないヒカルは、数歩後ろに下がって、周囲の状況を注視する。
「フェルディナンド殿!?」
「あぁー、クッソ……。言わんこっちゃないぜぇ」
破壊された扉の残骸と、降りしきる埃にまみれたフェルディナンドは、苦笑いで天井を見やった。
「神経質過ぎんだよ、お前はよぉ!!」
彼の目線の先、真っ暗な梁の上に、何かがいる。猫や鼠のような動物ではない、もっと大きな生き物が、目をぎらぎらと光らせてこちらを睨んでくるのが、ヒカルには分かった。それが、フェルディナンドの言うところの、目星の人物なのだろう。だが、これでは話が違う。情報を集めるどころか、戦闘に発展してしまった。これは一体どういうことか――。
睨み合いを続けていた両者、その均衡は、梁上の人物が何かを放り投げたことで破れた。影から投じられたものの姿が、窓に射し込む光によって現れてくる。
「石……?」
果たして、それは握り拳程の大きさもない、小さな石であった。人にぶつかったところで、大した怪我にはならないであろう。しかし、不思議である。フェルディナンドが扉を開けた瞬間に、目で追い切れぬ程の俊敏な動きを見せた人物が、このような意味のない攻撃を仕掛けてくるだろうか。屈み込んで、床にばらまかれた石を検めようとしたアトラスに気づいたヒカルは、素早く制止した。
「アトラスさん、何かの罠かも……」
そう声をかけたその時、ヒカルには、一本の筋のようなものが見えた。その一方の端は石に、もう一方の端は梁上の人物につながっている。間違いない、これは何某かの魔法だ。
次の瞬間には、アトラスを押しのけるようにして空中に浮かび上がった石が、その形をロープに変じていた。そうして、ヒカルたちに息つく暇も与えず、縛り上げてしまったのだ。