苔の裏手門
「ヒカル様!?」
「追うな、カスパー!!」
鋭い制止の声に、扉に向かいかけていたカスパーの動きが止まる。驚いて振り返る執事長に、声の主、イヴァンはため息をつきながら、椅子に腰かける。
「彼だって、裁き人の強さが分かれば、諦めるはずだ。裁き人の関わらない事件を調査し、裁き人の事件には首を突っ込ませない。これが、彼にとっても、僕にとっても最善だ」
カスパーは、唇を噛みながら、自らの主を見た。端からこの男は、ヒカルの実力の天井に目当てをつけ、それが裁き人に至らないことを分かっていた。その上で、人と人との間の戦いのために、少年を招いた。
しかしそれでは、事件の調査という目的を持っていた少年が、あまりにも不憫ではないか。納得し切っていない様子の執事長を見たイヴァンは、大丈夫だよ、と前置きして言った。
「どの道、あの少年はワルハラからは出ることができない。僕が勅令を出せば、彼は鉄道には乗ることもできないからね」
それはもちろんだが、問題はその後であろうに。カスパーは、まさに唯我独尊といった振舞いのイヴァンに対し、釈然としない思いを抱えたまま、部屋を後にした。
ヒカルは、入り組んだ王宮の廊下を、闇雲に走っていた。来る時の道順を辿ることができればよかったのだが、王の間を出たところで、その途上の階段に誰かがいたために、ヒカルはやむなく別の道を行くことにしたのだ。それが、そもそもの間違いであった。
(下に降りるための階段がない……。確か、王宮の東西にあったはずなのに……)
ヒカルは初めて王宮を訪れた時に、そう説明を受けていた。だが、それを確かめるには、あまりに広すぎた。引き返そうにも、再び王の間の前を通ることはできまい。だから、進むより他なかった。
気の急ぐあまりに、ヒカルは曲がり角を曲がった拍子に、強く何かに身体を打ちつけた。弾かれるように倒れ込み、臀部を打ちつけた痛みに、反射的に目をつぶる。真っ暗の視界で、ヒカルは状況を整理する。壁か、だが壁にしては小さく、柔らかいように感じる。
「大丈夫ですか?」
ヒカルは、うっすらと開けた目に、小さな手が映り込んできたことに気づいた。その手を辿ると、真っ白な装束が目に入った。そして、徐々に視線を上に持ち上げていくと――。
「……!?」
それは、まだ幼い、可憐な幼女のようであった。一点の汚れもない純白の衣服に身を包み、首を傾げると、明るい茶色の髪が揺れる。まるで花のような儚げな印象だ。しかし、その表情は、顔を覆う皚々とした布に遮られて、うかがい知ることはできない。
「ごめんなさい、急いでて……」
ヒカルは、その幼女に助け起こされ、恥ずかしげにそう礼を言った。幼女は無言で頷いたが、それ以上は何も語らない。沈黙の中で見つめ合うことに辛抱できなくなったヒカルが、会釈をしてその脇を通ろうとすると、いきなり幼女の手が伸びてきて、ヒカルの腕を掴んだ。
喫驚に、振りほどこうとするヒカルは、しかし、幼女の思わぬ力の強さのために、それを断念した。無理に振り払おうとして、彼女の肩が外れては大変であるからだ。
幼女は、ヒカルの動きが止まり、一過性の興奮が収まったのを見て取ると、小さな声で述べ立てた。
「この次の角を右に曲がると階段があり、降りてすぐ側の出入り口は、王城の裏手門に通じています。そこで、一番最初に会った者についていきなさい」
それだけ言うと幼女は手を離した。先程までは、蝋人形に捕らわれていたかのように、外そうにも外せなかった手が、滑らかな動きでもってヒカルから離れていく。ヒカルは、不思議な幼女が、ヒカルが元来た角を曲がるまで、ふわふわとした気持のまま、呆然とそれを見送った。
(いや、そんなことしてる場合じゃない。確か、角を右に……)
ヒカルは、長く続く廊下を見やった。彼女の言うことが正しければ、きっと階下に辿り着けるであろうが――。
果たして、少年の慮りは、杞憂に終わった。何事もなく、一階まで降りてきたヒカルは、改めて自分の降ってきた階段を見返した。吹き抜けの最上階から、あの幼女が見ているような気がして、ヒカルは、首を元のように戻した。
(でも、こんな人気のないところに、誰かいるのか……?)
あの幼女の忠言の後半、裏手門を通って最初に出会った人間が、ヒカルに進むべき道を示してくれるという。ヒカルは、半信半疑ながら、ゆっくりと歩みを進める。
華やかな表門と違って、裏手門には、美しい装飾も精巧な彫刻もない。ただ無骨な石組みの門だけがあるのである。しかし、機能美というか、洗練されているというか、ヒカルにはむしろこちらの門の方が好感が持てた。石組みの基部にわらわらと生え出た苔が、この裏手門がどれだけの時間、王宮の背中を守ってきたのかを、ヒカルに教えてくれた。
「ほう、この門の良さが分かるか」
ヒカルの背後から、落ち着いた低い声がした。驚いたのは、突然、その声が聞こえたからではない。幼女の言っていた、最初に会った人物という条件に合致するからだ。
「貴方は……?」
振り返ったヒカルは、声の主を観察した。どっしりとした逞しい身体つき、切りそろえられた短髪と、薄く開かれた目。浅黒い肌は、いずれもその人物が、武人の性格を持つ人物であることを証明していた。
「私はアトラス・コニーチュク。ワルハラ陸軍士官学校で軍事学の教鞭をとっている者だ」
一定の調子で、男は淀みなく、そう応えた。