貴婦人の微笑
ゲレインへと向かう列車の中は、非常に空席が目立った。あてがわれた個室に、僅かばかりの荷物を置いた二人は、所在ない時間を過ごしていたが、苦しいだけの沈黙が続くのみで、やがて隠忍としていられなくなった。だから、どちらが言い出したという訳でもないが、窓の大きな展望車を訪れたのは、当然の帰結であった。鬱蒼とした木々の中を裂くように進む列車の振動に身を任せ、二人は何も言わずに、ただ淡々と、車窓を縦横無尽に飛び回る緑の濃淡を眺めていた。
美しい常緑樹に、全く動かされることのない、無言の二人の胸に去来するのは、自分たちが手を伸ばしても届かなかった人々の叫びである。気まずさに耐えられなくなったヒカルは、ふと目線を逸らして、同じ車両の中を見回した。ヒカルとアテナの他は、小さなバッグ一つだけを持った、いかにも貴婦人という品のある出で立ちの女性が、たった一人だけの車両である。誰も座席から動かないこの車両で自分が動いたら、嫌な注目を集めてしまうかもしれない、といういらぬ心配が頭を掠めたヒカルは、腰を上げかねた。
「ヒカル……。今、話しかけても大丈夫?」
頬杖をついたまま、目を合わせずにアテナが問いかけてくる。ヒカルにそれを拒む理由はなかったが、ただ考え事をしていたために、すぐに答えることはできなかった。ややあってから、ヒカルは小さく頷くことで、その答えとした。
「ヒカルはさ、これからどうしようと思ってる……?」
「これから……、って?」
アテナは、ヒカルを振り返って、じっと見つめてきた。悲しみと不安が混じり合った表情のまま、彼女は鬱屈とした心情を、縷々として吐露する。
「怖いの……、私の知る人が、どこか遠くへ行ってしまうのが……。事件を調べていく内に、皆がいなくなってしまうんじゃないかって…………」
アテナの不安は、もっともだった。記憶を全て失った今の彼女にとっては、イヴァンや大魔導師たち、そしてもちろんヒカルと共に過ごし、また戦った日々が、その全てであった。彼女の持つものは、極端に少ない。それは失うものが少なく、身軽であるとも、一つの要素の消失が、大きな心の傷になるともいえるのだ。ヒカルの持つ弱さとは別の大きな弱さを、彼女は抱えていた。
怖気に襲われ、自らの身体に腕を回すアテナは、自分が生きているという事実が、強大な力によって、いつか永遠に失われる時がくることを恐れているようにも見えた。ならば、その恐れを除くことこそ、今の自分にできることなのだと、ヒカルは考えた。
「……そんなことにならないように、俺は頑張るつもりだ。皆の大切な人を守るため、俺は刀を振る……」
それができるかどうかなど、問題ではなかった。やるのだ。挟持を曲げることも、一滴の血を流すこともなく、やってやる。そんな意気で、ヒカルははっきりと言い放った。
「強いね、ヒカルは……。私は、今はそんな風に思えない」
「いや、思えなくてもいい。でも……、もし、アテナと、アテナのかけがえのない人が消えかけたら、俺がどうなっても守るから」
「それじゃ、ヒカルは……」
アテナの目が、何事かを訴えていることに対して、ヒカルは常の通り、かなり鈍感であったが、彼女が何を言わんとしているのかは、少々時間を要したものの理解した。それもそのはずである。ヒカルは、自分がアテナのかけがえのない一部である自覚など、微塵もなかったのであるから。彼のひた隠す感情は、一方的であると決めつけていたからである。しかし、彼女がそのように思うなら、彼とておいそれと死ぬ訳にはいかなくなった。
「いや、俺も死なない。……例え、裁き人が相手でも」
そう口にした瞬間、ヒカルは自身の肩口に、確かに冷気を感じた。単純な冷たさではない、刀を首筋に当てられたような、身の毛のよだつような冷たさであった。
「ひッ……!?」
肺が凍りついたようになり、体内の空気が出尽くしてしまったように、ヒカルは感じた。反射的に身を硬くする本能が、無意識に働いたのだ。
そこにいたのは、同じ車両に乗っていた貴婦人であった。漆黒の装束、柔和な表情、垂れた細い目、上品な身振りは、先程の厳しい雰囲気を全く感じさせない。ヒカルは、その落差に、自分の感じた気配は、一体何の間違いであったのか、と首を傾げた。
「駄目よボク、そんなことを言っては。目をつけられてしまうでしょう……?」
クスクスと、口元に手をやって笑う貴婦人に、ヒカルとアテナは呆気に取られた。しかし、彼女の言うことももっともである。王都での死霊事件の最終局面に、突如出現した金髪の男。それが裁き人だというのなら、まさに神出鬼没の存在であるといえる。滅多なことを言ってはいけないというのが、常識であるらしい。
「すみません、ありが……。えっ……?」
今後、思わぬ形で降りかかるかもしれない危機を防ぐことができるであろう助言。その礼を言おうとしたヒカルが向き直った時には、その貴婦人の姿はなかった。