残滓
月蝕の終了と共に、城壁内部を中心として吹き荒れていた暴風は止んだ。それは、アレキサンドラとアンリの死闘が、決着したことを示していた。
「勝ったかしら……?」
「おいやめろジェーム、それはお決まりの展開を招くぞ……」
尚も警戒を続ける大魔導師たちだったが、やがてマナの乱気流も収まり、中の様子を探れるまでになった。だがおかしい、城壁の中から漂うマナの気配は、公女のものとも、アンリのものとも違っていた。
「これは一体……、御婆様は、生き残っているのでしょうか……」
「……分からない」
その答えは、いや、大魔導師程に魔法に精通している人間ならば、了然としているはずである。人のマナの組成は、まず変わることはない。つまりそれは、城壁内部から漂ってくる気配の源が、取り残された生存者か、或いは、カリスの魔術儀式によって生み出された何か、であることを示唆していた。
「ここで迷っている暇は、ありません。……行きましょう」
どこからか見繕った松葉杖をつきながらも、前を見続けるフォラムの言葉に覚悟を決めた大魔導師たちは、ゆっくりと、城門を目指して歩み出した。
城門の内部は、動天の有様であった。家屋、宮殿等、建造物群は少なからぬ損害を受けており、元の通りの形で残ったものは、何一つとしてない。龍の大群が暴れ回っても、旋風が通り過ぎたとしても、ここまでの惨状は呈さないであろう。それ程に、あの一瞬の戦いは、熾烈を極めたのだ。
「あそこに、誰か……、います……」
フルールの怯えたような声に、他の大魔導師も頷いた。かなり弱っているものの、そこには小さな人影が横たわっている。マナの組成を見るに、アレキサンドラでもアンリでもない。取り残された住民であれば、すぐに手当する必要があるが、しかし、この戦いの中で生き残っているということは、相当な幸運の持ち主か、或いは黒魔術師のような、外法の使い手か。恐る恐る、大魔導師たちは、その人物の顔を覗き込んだ。
「これは、ブランカ……? それとも……」
そこにいたのは、ブランカ、ノアーラの双子によく似た少女であった。しかし、その姿は双子のいずれとも異なる、足して二で割ったような、そんな見かけであった。
「これは……、どう判断するべきかな?」
その黒白入り乱れた無彩色の髪の少女は、どうやら気を失っているようであった。まるで瓦礫の棺の中で、眠っているかのような穏やかな表情を浮かべる彼女は、しかし、その柔肌にも衣服にも、傷は一切ついていない。明らかに異常なその姿。魔術儀式の影響であることは、間違いなかった。
「とはいえ、この子からはアンリ程の力は感じない……。儀式は、失敗だと思うのだわ」
そう、アンリがその命を代償にして、手に入れようとしたものは、終にこの地上にはもたらされなかった。払われた多大な犠牲は、溝に捨てられたかのようなものである。結果として、何も生むことなく、儀式は終幕を迎えたということだ。
「でも、御婆様は……」
誰ともなく、そう呟いた声が、風に巻かれて、千切れて、そして流れていく。重い沈黙が、皆を押し潰す。
アレキサンドラは、黒い染みと化していた。彼女が命をかけて守ったのは、サーマンダ公国だけではない。世界とその未来をも守ったのだ。
黎明の書は神話であると同時に、人間の指標であり、禁止目録である。その内容を現実世界に反映させることは御法度であるからして、その内容を知るものが、この国から消えてしまったことは、未来永劫の平和に寄与したという面では、ある意味ではよかったのかもしれない。もちろんその理屈は理解していても、心情的にそれを受け入れることは拒まれたが。
「……それで、この子は……、どう、しましょう……」
フルールは、その現実から逃げんとして、再び足元に横たわる少女に目を落とす。他の大魔導師もまた、同じように、めいめい視線を移していく。
「許しておける訳、ない。……でしょう?」
シレーヌの言葉には、鉄の怒りが込められている。かろうじて激情を押さえ込めているものの、その憎悪の念は、彼女の、極めて軽微な表情の変化からでもはっきりと分かる程であった。
故に、アルジェンタが、その感情を断ち切るように言葉を発したことに、彼女たちは驚きを隠せなかった。
「だからって、今、この子を殺すのはあまりにも早計だ」
「……!? アルジェンタ、何故そう思うのです。これは、御婆様の命を奪った、魔術儀式の残滓です! 生かしておく訳には……」
フォラムの反論を、アルジェンタは当然のものだと肯った。もちろん、感情に任せれば、自分だってそうしたいのだ。だが、そうもいかない。
黒魔術と、黎明の書の融合によって生まれたこの少女を調べれば、その体内の術式の一片から、術式全体を復元できるかもしれない。それに、フルールたちの聞いた話が正しければ、少女たちはアンリに操られていただけであって、直接的な罪はない。
しかし、これだけの材料があっても、大魔導師たちの心の燻りは鎮火し切れなかった。拳を固く握りしめるフォラムに、ジェームはゆっくりと語りかける。
「それに、貴女……。今や御婆様の最期を知るのは、この子だけなのだわ。だから殺すとしても……、せめて御婆様の最期について、聞き出してからにして頂戴…………」
すすり泣きは、大魔導師たちの心の中の温度を、無機質な優しさで冷ましていった。そうしてようやく、彼女たちは、精神的支柱なしで歩み出す覚悟を決めたのだった。