『 』
カリスの首領、アンリと、サーマンダ公国公女、アレキサンドラの因縁は、何も一連の襲撃から始まった訳ではない。それよりもっと前、大魔導師が代替わりする前まで遡る。アンリは、才能ある術士として、シレヌム帝国からサーマンダに移り住んできていた。その面倒を見ていたのが、アレキサンドラであったのだ。
アレキサンドラは、その才能が、最早天才の域すらも超えていると、すぐさま見抜いた。自身の後継者となり得るのは、この者をおいて他にないと、すぐにワルハラ政府に届け出て、アンリを養子として迎え入れた。
アレキサンドラの英才教育は実り、アンリはサーマンダにとどまらず、ワルハラでも、いや、世界中を探しても比類ない程に強力な魔法を手に入れた。そうして満を持して、アレキサンドラは禁忌であった黎明の書について、アンリに伝承することにした。
しかし、その本の内容を見たアンリは、アレキサンドラに言い放った。
「私の魔力と頭脳があれば、もっとすごいことができるのに」
アレキサンドラの期待は、不安と警戒に変わった。神話を超越することなど、大いに莫迦げている。しかし、人の枠を超えて成長する怪物なら、或いはそれは可能なのかもしれない。
アレキサンドラは、部下に命じてアンリを襲撃し、大河に突き落とさせた。それ以後、彼女は異常な力を持った魔道士を、極度に恐れるようになったのである。後になって、大魔導師をも凌駕する術士、エレフィアを、生まれて間もない頃に谷に棄てさせたのも、強力な魔術式の核となりかねない双子を切り離したのも、そのためである。
だが、アンリは生きていた。そして黎明の書の複雑な内容を、残らず暗記していた。宮殿の最奥の部屋に閉じこもり、アンリの術式と黎明の書の内容を照らし合わせていくと、ほぼ全てが一致したのだ。もっと早く勘づいていれば、とアレキサンドラは歯噛みしたが、しかしもう遅い。ならば――。
「刺し違えても、ここで止めるしかないでしょうねぇ……」
「やってみますか?」
アンリの不敵な笑みが、戦闘開始の合図だった。
「始まった、私も加勢に行く」
「だめよ、シレーヌ。御婆様が何故、転移魔法を使ったのか、考えてご覧なさい。……自分以外の名を、墓石に刻ませないつもりだわ」
響き渡る轟音、空を照らす閃光、吹き上がるマナの嵐。巻き込まれれば、大魔導師とてただではすむまい。そう判断したアレキサンドラの意志を、ジェームは汲み取ろうと努めていた。意気地がないのだと振り返ったシレーヌは、決然とした目の端に、満々と涙を溜めたジェームを見て、悟った。意気地がないのは、アレキサンドラの意志を量ろうとせず、感情に身を任せて行動しようとした自分自身なのだと。
「今は、見守るしかないね。……念のため、戦闘の準備をしておくよ」
「……ありがとう、アルジェンタ」
皆が固唾を飲んで見守る城壁の上空、高く上った月が、徐々に赤く染まってきていた。
「御婆様、ご覧ください。月蝕ですよ」
切れ目のない、魔力と魔力のぶつかり合い。しかし明らかにアレキサンドラは劣勢であった。苦し気な彼女を尻目に、嬉々として空を眺めるアンリは、独白を続ける。
「素晴らしい、素晴らしい! 私はこれを待っていたんだ!! どうせエレフィアの魔法具には気づくでしょうから、それを見越して早目に来て正解でした。案の定、長期戦にもつれ込んだ。しかしどうです、狙い通り。でしょう?」
アンリの作戦は、全てうまくいっていたということだ。味方を逃がす決断をしたアレキサンドラの行動もまた、彼の掌上の出来事であった。それならば、掌から飛び出す程に暴れてやろうと、アレキサンドラは心に決めた。
(アンリだけじゃない、術式の核の双子は、大きな的だわぁ……)
アレキサンドラが、素早く狙いを切り替え、大樹のようになった蔓草に向かって、地を這うような光球を発すると、アンリはそれを察知し、瞬時に破壊する。
「見え見えなんですよ、狙いが」
勝ちようもない戦い。アレキサンドラの攻撃は、どれだけ工夫していても、有効に働かないだろう。そんな打ち合いを繰り返す内に、彼女は自身の魔力が、既に限界を迎えたことを察知した。このままでは、自分が斃れるばかりでない。サーマンダ公国の人間たちが危ない。――自分の頑張りが半端であったがために、人々が危険に晒されるという状況は、何としても避けねばならない。そう考えた彼女は、黎明の書をめくり、最後の手段に出た。
「『 』……」
それは、古代の言葉で綴られた呪文、その意味を理解できる者は僅かである。そしてその中には、アンリも入っていた。
「なりふり構わず、死をも辞さぬ覚悟、ですか。皆既月蝕も始まったことですし、こちらもいかせてもらいますよ」
アンリが呪文を唱える。それは、このサーマンダ公国中に張り巡らされた術式が、最後の段階に入る合図であった。
アンリの背後で、捕らえられていた双子の身体が光り出し、その身体を覆う太い蔓草を、一瞬の内に塵に変えていく。眩しさに目を細めるアレキサンドラの目の前で、二人は、アンリの生み出した、麻薬によって現出した快楽の海に溺れるかのような多幸感に、堕落的に身を委ねていった。
「あぁ……、ノアーラ。とても暖かい……。私たち一つになっていくのね……?」
「えぇ……、ブランカ。私たち二人で一人、いっしょに美しい世界を創るのよ……」
白と黒の極光が、二人の少女を包んでいく。これがこの世の黄昏、暗い月の真下、あまりにも美しい世界の終焉の景色である。
この術式を、完成させてはいけない。そうでなくては、自分は無意味にここに残ったことになってしまう。アレキサンドラは、深呼吸を一つして、詠唱を開始した。
「……『鋼鉄の剣』」
アレキサンドラが作り出した、小振りな剣。彼女はそれを、迷うことなく自分の胸に突き立てた。乱暴に引き切った短剣が地面に転がり、それに折り重なるようにアレキサンドラが倒れる。石畳には、見知らぬ赤い地図が、ゆっくりと描かれていく。そして、それを一段高い位置から眺めるアンリも、彼の胸部を襲った鋭い痛みに、片膝をついた。
「ぐっ……、本当にっ、躊躇わなかったな……」
アレキサンドラに対峙していたアンリの服が、横一文字に裂け、そこから血潮が噴き出す。アレキサンドラの先程唱えた、黎明の書の一葉。それは一種の、呪いについての記述であった。止めどなく流れるそれを止める手段を持たない彼は、しかし敢えて有り合わせのものでそれを止めようともしなかった。
(私は死ぬ……。だが……、術式は既に完成している……。後は……、後はあの双子の身体が、持つかどうか……。口惜しきは…………、新たなる地平を見ずして、私が、死ぬ……、こと…………)
アンリの思考は、そこで停止した。