剣客覚醒
石を穿つ、凄まじい音が響き渡り、ヒカルははたと顔を上げた。情けないことに、じりじりと睨み合うマルクとレギウスを前にしながら、ヒカルはまだ、刀を振るうことができていなかった。相手は生身の人間、自分が携えるのは、真剣である。それを使えば、結果は当然のものとして、ヒカルにのしかかるだろう。
刀を振るえば、人を傷つけないという流儀に反するし、振るわなければ、助けられる人を見捨てないという意地を貫き通せない。そんなことを考えつつも、ヒカルは、自分が本当のところは、人を傷つけるのが怖いのだということは分かっていた。否、正しくは、人を傷つけるような自分が恐ろしいということである。それをした時に、ヒカルは自分が、元の自分ではなくなってしまうような、今までの経験を全て投げ捨ててしまうような、そんな気がしていたのだ。何故なら、ヒカルの刀は、守るためのものであるから。
(じっちゃんなら、どうにかできたのか……?)
困難に衝突した時、ヒカルは、師たる老爺を、自分と置き換えて考えることを常としていた。老爺ならば、迷わず刀を振るう。しかしそれは、彼が人に切りつけずとも勝負に勝てる程の使い手だからである。思えばそれは、なんと遠大な目標であろうか。
或いは、レギウスと組み合うのが自分であればどうか。マルクは迷いなくレギウスを打ち倒し、ヒカルを助けるだろう。そこに何ら責められるべき要素はない。職務を全うした、仕方がなかった、で済むのだ。もちろんそれは、ヒカル自身にとっても同じであるはずだ。
しかし、最後までヒカルは、決心を渋った。人を殺める可能性に対し、ヒカルは厳しさも、狂気も、そして優しさも、持ち合わせていなかったのだ。
「あぁ……、もう駄目だぁ……」
徐々に腕から力が失われていくのを感じ取ったマルクは、最期にこの少年の評価を改めた。彼は確かに剣術に優れている、その腕は並の騎士団員に匹敵する程だ。だが、それは戦闘向きではなかった。人を傷つけ、殺してしまうのではないかという不安が生まれた時、ヒカルの刀の鋭さは鈍る。それを理解するのが、遅すぎた。
「さらばだ、ワルハラの戦士よ……」
諦念の織り込まれたマルクのため息に、レギウスの声が重なる。そうして、一段と大きな力が込められ、剣がマルクの首に重なる。万事休すか、マルクは目を閉じた――。
「うっ……、うおおおぉぉぉッ!!」
その直後、咆哮が辺りにこだまして、強い衝撃がマルクを襲った。首を落とされたのか、いや、経験こそないが、そんな感覚ではないはずだ、とマルクが目を開けた時、目の前にレギウスの姿はなかった。その代わりに、刀を構えたヒカルが、彼の前に立ち塞がっていた。
「ひっ、ヒカルぅ!!」
安堵と緊張とで、覚えず声が震えるマルクに、ヒカルは申し訳なさそうに言った。
「すみません、つまらない矜持を捨てられないで……。もっと早くこうすればよかったんですけど……」
峰打ちを苦にしないレギウスを傷つけず、どうやって撃破するか。迷った末にヒカルは、結局、切ることを諦めた。
満身の力を、両手剣に集中させるレギウスは、ヒカルの刀による攻撃を警戒しながらも、しかし同時に攻撃できないという自信を持っていた。そうでなければ、ヒカルに対して何も対策をせず、マルクに取りかかる訳もない。そして事実として、この予想は的中していた。
だが、それはヒカルが何もできないという訳ではない。それに刀は、人を切ることしか能がないという訳でもないのだ。
マルクが死を覚悟した瞬間、ヒカルは意を決して刀を上段に構えながら、レギウスとの距離を詰めた。彼は慌てるような素振りを一切見せなかったが、かといって動揺しなかったということではない。自分の予想外のことが起きたとすれば、人は誰しも驚かぬ訳もないのである。咄嗟に防御の姿勢を取ったレギウスは、ヒカルの目標が自身の首であると予測したらしい。しかしそれは、ヒカルの狙い通りであった。
ヒカルは、互いの得物がかち合う瞬間、姿勢を低くし、レギウスの急所を狙って、まず一発、蹴りを入れた。顔を潜めて、伸び上がりながら悶絶する巨漢に、ヒカルは刀を構え直し、渾身の峰打ちを打ち込んだのだ。
「それで、こいつは伸びちまったって訳か」
気絶して、足元に転がったレギウスを見ながら、マルクは感心したといった素振りでヒカルを振り返った。
「隙がなければ、作ってしまえばいい。じっちゃんも確かそう言ってました、そこにつけ入れば、例えどれだけ強い相手でも、血を流さずに倒すことができるって……」
それもまた、一つの強さの形であると、マルクは頷いた。或いは無手勝流こそ、自分も相手も傷つかない、至高の形であるのかもしれない。今はまだ、迷いのある少年がその道を歩むには、どれだけの苦難が立ち塞がるかは分からないが、しかし彼はその道を歩み続けるのであろうと、マルクは心の中で納得した。
「申し訳ないです。俺がもっと強ければ、マルクさん、こんなに消耗しなかったんでしょうけど……」
そう言って俯くヒカルの肩を、マルクは優しく叩いた。
「何、終わりよければ全てよしだ。まぁ、葛藤は誰にでもあるしな。もう少し早くそうしてくれりゃ、もっとよかったけど……」
苦笑いで述べるマルクは、気を取り直して言った。
「さぁ、最終局面だ。アンリをぶっ倒して、大団円だぜ!!」
高らかに言い放ち、駆け出すマルク。先程まで生命の危機にあったとは思えぬ切り換えの速さに、ヒカルは狐につままれたような心持であったが、自分にも何かできることがあるはずだと、後を追って駆けていった。
(やられた……、この私が……?)
ヒカルたちが立ち去った後、意識を取り戻したレギウスは、痛む身体を気にかけつつ、ふらりと起き上がった。そしてぼんやりと、自分には戦う力は残っていない。ならば、首領に自身の魔力を捧げねば、と思い立ち、丸みを帯びた様式の鎧を取り外して、自身の腹を見た。刃を突き立てるべきところには峰の痕がくっきりと残っていたが、酷い怪我ではなかった。
「……!? いや、まさか!!」
レギウスは、自身の腹と胴鎧を、二度三度見比べてみた。手酷く打たれた肉体と、たわみなき曲線を描いたままの鎧、これはつまり――。
「……そうか、あの少年が……。面白き、剣客よ……!」
戦えなければ、アンリのために魔力を捧げようと、常々思っていたレギウスであったが、久々に胸に去来した昂ぶりに、割腹を思い直したのだった。アンリと出会う遥か前に、自分を形作っていた信念が呼び覚まされ、燃え上がるような思いで、彼は足を引きずりながら、撤退を開始した。