軍議
「彼を知りて己を知れば、百戦殆うからず。
彼を知らずして己を知れば、一勝一敗す。
彼を知らずして己を知らざれば、戦う毎に必ず殆うし。」
これは、孫氏の兵法に出て来る有名な言葉で、情報の重要性を説いたものといわれる。それは間違いないことなのだが、深く考えると色々と面白いものがある。
例えば、「百戦殆うからず」の部分を「絶対に勝てる」と解釈すると少々おかしなことになる。
どれほど正確に情報を握ろうと、十倍百倍の戦力差を覆すことはまず無理だ。寡兵で大軍を撃退するなどと言ったことは、それなりの条件が整っていなければ不可能なことで、正確な情報を持っていても無理なものは無理なのである。
それに、こんなことを考えたことはないだろうか。「敵だって勝つために最善を尽くす。お互いに『彼を知り己を知』っていたら、どちらが勝つのか?」
実際のところ、我彼の情報を正しく把握することで知ることができるのは、戦った結果の予測である。つまり、「どこまでの勝利」を求めてよいかが分かるのだ。
現実の戦いでは、勝利条件を自分で勝手に決めるられることが意外と多い。相手が弱ければ敵を完全に消滅させるまでやって勝利とする場合もあれば、強い相手の場合は生き延びれば勝ちということもある。
重要なことは、状況に応じて最適な勝利条件を設定すること。そして、それを基にしてもう一段上の戦略や政略を立てることだ。
さて、俺の最終的な勝利条件は、「生きて日本に帰ること」だ。それ以上を求める気はない。
そのために重要になるのが、この後の魔族とも戦争だ。戦死しないことは当然として、ある程度の戦果を挙げることが必要だ。勇者としての成果を上げれば世界中からの注目が集まり、不用意に暗殺などできなくなるだろう。
リセルでスタンピードに立ち会って、ゴブリンキングを倒したというのも勇者としての成果になるが、やはり本命は魔族との戦争になる。俺が参戦した戦闘で勝利すれば、各国は勇者の戦果として大々的に宣伝してくれるだろう。
具体的に、どこでどう戦って何をもって勝利とするか。それを決めるには現在の魔族と人間の戦争の状況を知る必要がある。
人類と魔族の衝突はだいたいがテルミヌス川の中流域で行われる。これは地理的な要因で、千年前の魔王戦役以外はほとんど全ての小競り合いがこの近辺で発生している。
今回もその例にもれず、テルミヌス川の中流域に接するボーガス公国が主要な戦場になっている。
現在、人類と魔族の間で戦争の火種となる場所が二箇所ある。
一つは『アキト解放区』。先代勇者が魔族から奪い取った土地で、現在唯一テルミヌス川を越えて人類が確保している場所である。
もう一つは『ネズ占領地』。こちらは逆に魔族がテルミヌス川を超えて占領した場所で、『アキト解放区』から徒歩で半日ほどの所にある。
どちらも人間と魔族がにらみ合いを続けており、いつ戦闘が始まってもおかしくない場所だ。
戦果を上げるとすれば、『アキト解放区』の防衛または拡大、あるいは『ネズ占領地』の奪還といったところだろう。
まあ、戦争は一人でできるものではない。人類側と魔族側の状況をもっと詳しく知る必要がある。『彼を知りて己を知れば』というやつだ。
そんなわけで、リセルを出立した俺たちは、ボーガス公国へ向かった。
ボーガス公国の首都ダラム。戦場となるテルミヌス川流域から少々距離のあるこの街に立ち寄ったのは、対魔族戦の軍議が行われているからだ。
魔族との戦争は人類全体の戦い。当事者となるボーガス公国だけでなく、辺境諸国及び中央三大国も兵を出している。だから、戦場へ赴く前に一度全体の方針のすり合わせを行うのだ。
軍議はサクサクと進んだ。様々な国の利害が絡んでいるだろうに、紛糾することもなくてきぱきと話が進んでいく。どうやら事前の協議で合意済みの内容を確認する場だったようだ。
「それでは、動員可能な全兵力を持ってネズ占領地を奪還する、ということでよろしいでしょうか。」
議事進行を行っているボーガス大公がこれまでの内容を総括する。ボーガス大公はまだ二十台の青年だが、一回り以上年上の各国の将軍らと対等に渡り合っている。さすがは一国の主というべきか。
「一つ、質問いいか?」
俺は、事前の協議などには参加していないので、分からないところは質問するしかない。
「どうぞ、勇者様。」
「全兵力をネズ占領地に回すと、アキト解放区の方が手薄になるが、そちらはどうするのだ。」
「今回は、ネズ占領地の奪還を最優先とし、最悪、アキト解放区は逆侵攻さえ防げれば良しとします。」
「なるほど。了解した。」
人類が恐れているのは、魔族が魔界の外に定住する方法を確立してしまうことだ。それが可能になると、辺境諸国の端からじわじわと魔族に占領されていく恐れがある。
だから、魔族を川の向こうへ押し返せれば、逆に川の向こうの領地など失っても十分に勝利を宣言できる。そのように根回し済みなのだろう。
その後、軍議は詳細な作戦に移っていった。
俺は軍議の内容やその後幾人かと個別に対談した結果から、各国の思惑と勇者に求められている役割を推測する。さらに、最前線から報告される最新の魔族の動向も加味して、あるべき戦いの後の状態を想定する。そこに至るために何ができるかを考える。
実は俺にはここにいる他者にはない情報を持っている。ミストレイク王国と繋がっている魔族の存在だ。そいつらはこの戦争に必ずかかわる筈だ。だがこの情報を公開することはできない。そんなことをすれば、国王を始めとする陰謀を企む連中だけでなく、ミストレイク王国そのものが滅びる可能性がある。
軍議のあった翌日、ダラムにいた面々はネズ占領地へと移動を開始した。どうやら、勇者である俺の到着を待っていたらしい。
ネズ占領地へ行く前に、ボーガス公国軍はアキト解放区へと立ち寄った。アキト解放区に常駐している戦力を、必要最低限の防衛力を残して連れていくためだ。俺はそこに便乗してアキト解放区を見せてもらった。
「狭い……」
アキト解放区を見た正直な感想だった。さして広くはない土地をフェンスで囲い、これだけは立派な前線基地の建物と、いくつかの防衛施設。それに兵士や冒険者のための宿舎が立っており、空き地はほとんどない。
これでは、危険がなくても、一般人の入り込む余地が物理的にない。それどころか、兵士の一部は橋を渡った西側に作った宿舎に寝泊まりしているらしい。
ボーガス公国軍を率いてきた将軍は、アキト解放区の司令官に命令書を手渡し、口頭でも命令を伝えた。内容は簡単だ。
・アキト解放区に駐留する兵士及び冒険者は、最低限の防衛戦力を残してネズ占領地の攻撃部隊に合流する。
・魔族による攻撃があった場合、敵が多数ならば無理せずに撤退することを許可する。
・撤退する場合は、必ず橋を落とし、魔族による逆侵攻を防ぐこと。
あらかじめ今回の作戦については伝わっていたらしく、特に混乱することもなく攻撃に参加する者が選ばれ、ボーガス公国軍に加わった。
そしていよいよ戦場となるネズ占領地に向かった。
『アキト解放区』の名称は、先代勇者の名前から付けられています。ただし本名とは限りません。魂の名前、とかかもしれません。
『ネズ占領地』の方は近くの地名から付けられています。
『ネズ占領地』は先代勇者がミストレイク王国に戻るタイミングを狙って占領されました。その後先代勇者は暗殺されたので、占領されたままになっていました。




