恐怖心と力
サーッという木々の葉達が擦れ合う音、地獄の底から漏れて聞こえてくるような唸り声、そんな音が聞こえる。
冷たい微風が頬を撫で、冷え切った体が身震いした。心身に突き刺さる恐怖心と下半身を指すような消失感に「うっ」と呻き声を上げながら伊織は体を縮こめた。
(寒い……怖い……、けれど俺には帰るところはない。俺はこれからーー俺はーー)
クリスタ王国において追放の身という、ありふれた冤罪の罪を被されてから有にそろそろ五時間が経過しようとしていた。つまり、バイオの森に立ち入ってから五時間が経過したということである。
国王や騎士団長に対し、強気な態度を最後まで貫き通した伊織だったが、森に入り五時間経った今でさえ、森の中で見つけた崖の壁を背後に前方だけを警戒するという状況から何の行動も起こせずにいる。事実、夜の闇のような森の中を移動することこそ自殺行為だと考えられるが。
しかし、伊織の不安はそれだけではなかった。その不安要素は普通の人ならば、または自分が後一週間でも追放されていなければ無かったであろう根本的な事が伊織には足りていなかった。
そうである。何を隠そう伊織はそもそも戦うことができないのである。伊織は潜在的に見ても戦闘には向かないらしかった上、伊織は訓練を受ける前に追放されてしまった。伊織はこの自然の食物連鎖のピラミッドで表すなれば最下層の餌的存在だった。
森に入って以来、ずっとそんな恐怖感に襲われていた。
(対敵したら終わりだ。間違えなく……死ぬ!警戒はしているけれど、頼むから出てきて来ないでくれ!出てきても攻撃しないから見逃してくれないかな!?協力してくれるやつなら大歓迎だよ、うん、どんどん来い!)
そして内心、こんな事を呪文のように繰り返し考える。しかし、そんな儚い願いは必然のように散りゆくのだった。
伊織はただならぬ気配を感じ数メートル先にあった岩陰に即座に隠れる。それは、のっしのっしと近づいてくる音でも、 Tレックスが獲物を背後から標的にしゆっくりと近づいてくるドシンドシンという音でもなく、サラサラと何かが滑らかに滑る音だった。その音に、雰囲気に伊織は他の森の音とは異なる不安感を感じたのだ。
伊織はその音に全身を震わしながら、灰色で硬く冷たい岩にしがみついていた。眉間にまでも冷や汗が流れる。
(な、何の音だ?冷水を坂道に流したようなさらさらとしていて寒い音……頼むっ!こ、こっちにだけは来ないでくれ……気付かないでくれ……)
伊織は自然と体に力が入っていた。
ここで不運にも新たな魔物が登場した。伊織は異世界人であるせいなのか、それとも伊織自身が周りの状況把握能力を学生時代、強制的に学ばされたせいか、気配察知だけは能力が高いようだった。
岩から震えて力の抜けた手を何とか外し、岩の端へと掴む位置を変える。そして、そーっと右目だけを岩の外へと覗かせた。伊織は思わずシャッターを勢い良く降ろしたように瞼を素早く硬く閉じる。その後、珠を包んだような瞼をわり、目の前に広がる光景に腰を抜かせ、思わず出しそうになった声にならない声を喉の奥へと無理やりに押し込んだ。
漆黒の空気の流れに溶け込むように滑らかなローブを着込み、フードの中から見える口元は凍てつく冷笑のつららをぶら下げたような表情の男(?)と牙を剥き出し、背中から黒の翼の生えた小さな悪魔(?)がそこでは対峙している。伊織は蛇に睨まれたカエルの如く硬直した。魂が全力で逃げろと警鐘をガンガン鳴らしているが身体は神経が切れたかのように動かない。
「貴様っ!どこの者だ!?ここは我らが亜人族と魔物達が共存し合っている聖なる森だぞ!!お主のような、どこぞの者かも知れぬ者が立ち入って…………」
小悪魔は必死さ伝わるキーキー声で話した。しかし、こちらの世界に来てから聞いた話の中では、まともである話は、正しくないところで句点を打たれてしまった。
男が「ちょうどいい、この力の試したいと思っていたのだ。俺様の為に死ね」などと呟きながら、嘲笑い蝋燭のように白い掌を小悪魔へと向け、一瞬、黒い閃光がーーと思った時には小悪魔は絶命していた。瞬きのスピードと男が何らかの魔法使ったタイムラグは同じ。そのことから分かるように、この時の伊織の絶体絶命さは言わずもがなだった。
(ま、マズイ!ここにいたら殺される!!ど、どうする……逃げるか!?でもここから出ても、出た瞬間に見つかるーーダメだ!やっぱり逃げないと殺られる、殺される!!)
伊織の頭はほとんど機能停止状態だったが、体に染み込んだ危険察知能力が勝手に肉体に指示を出し、また伊織は灰色の硬く冷たい岩の後ろへと、瞳孔を開き切り息を荒くしながら逃げるどころか座り込んでいた。
男は不敵な笑みを浮かべる。そして、伊織の潜む岩陰をフードの隙間から一瞬眺め、再び不敵な笑みを浮かべながら、ローブを翻す。そのローブと共に男の姿は文字通り閃光、光のように闇の中へと飲み込まれ姿をくらました。
これを確認した伊織は経験したことのない安堵感と追放された時から溜まっていた疲労感に意識を奪われた。
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チュンチュンという小鳥の囁きが聞こえる。
(ここはーー俺は、一体どこにいたっけ?)
伊織はガバッと勢い良く上半身を起こした。意識が覚醒するのを感じる。そして、明るくなり夜中と比べれば多少なりとも明るくなった周囲をキョロキョロと見渡す。
伊織は今の状況が嘘のようで呆然としていた。まさか、魔物がうじゃうじゃと彷徨く夜の森の中、気を失ってなお生きているとは、と。
それでも、昨夜のあの男の事だけは思い出す事を猛烈に体が拒否した。あの他人に自分の命を握られている感覚を。けれど、相当インパクトが強かったためか反射的にあの事を思い出してしまう。ここで、伊織は再確認し、決意した。
(俺を守る奴は誰一人としていない。俺の居場所もどこにもない。俺は俺の道を進むしか生きる術はない。それが、現実か……。結局、日本もここも何も変わらない。力無き都合の良い人間は、力あるロクでもない人間に利用される。それは人間にとって生き物にとって避けては通れない道。だったら、仕方がない。静かな隠居生活も悪くないがそんな事をしていたら日本に帰ろうにも帰れないだろう。俺は俺自身の力でクリスタ王国をぶっつぶし革命を起こす!魔人族、亜人族、人間族そんな括りは俺が取り払ってやる!)
伊織の目はまた灼眼となっていた。その輝きは正義を制する者の証だと、それを見た者がいたならば言ったことだろう。
伊織は突然にステータスを表示した。伊織は決意したその時から計画をスタートしたのだ。この世界では『戦力=権力』となる。その世界で『戦力』がゼロ同然では話にならない。まずは『記憶』というスキル自体を理解しようとしているのだ。
ステータス内容は、初見の時と何ら変わらなかった。戦闘自体はまだしていないから当然と言えば当然なのだが……
この低スペックステータスで戦うことができるのか、という幾度となく考えたがこれに関してはどうすることもできなかった。
ステータスは気持ちで上昇するものではない。そうであったらどれだけ楽だろうに。
伊織はその不運を一旦脇に置いておくことにして、『記憶』について考えることにした。考え事の最中でも、岩陰での警戒の手は緩めない。白昼とは言えここは自然の世界である。
『記憶』について考えられることは伊織の中では三つ考えついていた。一つ目、それは単純に貴斗達が俺を馬鹿にしたように学生がもれなく欲する記憶力の上昇だ。そして二つ目は自分や他者の記憶を操作することができる。最後に三つ目、自分の記憶の中の事柄を現実として作用させることができる。
「記憶力が上がることは間違えないだろうが、他人の記憶操作は誰か標的がいないことには試しようがないな」
伊織はステータスを閉じ、カサカサと物音が激しくなった正面の木々に目をやり、構える。
シンとした空気を打ち破ったのは赤いラインが左右に一本ずつ存在し、大きな二本の犬歯を見せ付けるようにギラギラさせながらのっしのっしとこちらに歩いてくる雪男のような魔物だった。その魔物の口からべっとりとしたヨダレが伸びるようにして滴り落ちる。どうやら、伊織を標的としたようだ。
ちょうどいい、どうせこのまま行動していても死ぬだけだ。それなら行動を起こしたほうがいいという思いか守るべきものがなくなったためか今、伊織を恐れさせるものはなくなった。
魔物は己に敵意を剥き出しにしている伊織の方をギギギと油を刺し忘れた機械のように首を伊織へと向け、焦点をしっかりと伊織に合わせる。
(……来るなら、来い!俺を邪魔する奴は敵。そして、俺はそいつらを利用する……)
襲ってくる絶望を伊織は己自身から溢れ出す闘志で薙ぎ払う。こっちへ来いという意味を込めた瞳を魔物に見せつけながら、深く暗い森の中へと駆け出す。その視線の先で魔物は暴風と共に凄まじい脚力でカンガルーのようなジャンプで後を追ってきた。
伊織は体験したことのない本気の恐怖感と緊張感を本気の殺し合いで感じていたが、本能から来るものなのか、顔には必死さだけでなく笑顔も浮かんでいた。
(まずは第一段階。俺が奴の記憶を操作し自分を襲わなくてもいいと命令を出せるのか試す)
伊織は雲海のロープウェイに乗った際アデルバードが詠唱した文章を思い出していた。そして、それを自分風にアレンジし、唱えた。
「汝、我の魔力を糧として生を動かす輪廻の力を解放せよ。彼の心理へと至る道、理念と共に開かれん。転じよ記憶」
伊織も魔物も互いを警戒し立ち止まっている静寂が訪れた。
恐らく、間違ってはいなかったとは思う。けれど特に変化は起きなかった。その上、伊織の張り上げた声に反応して魔物が逆上させてしまった。
どうして呪文詠唱がこんなに厨二くさいんだよ……。それに、逆効果って……とほんのりと赤面しつつ、ちょっとした愚痴を漏らしながら、伊織は倒れていた大木の下をスライディングで滑り込みながら茂った草木の中へと姿を隠し体勢の回復を試みる。
しかしながら、魔物はそんなことは何ともないというように高さ二メートルほどの障害物を難なく飛び越え、伊織の隠れる茂みへと真っ直ぐに駆けてくる。
(どうして!?これが自然の中で培われた本能か!?)
気づけば伊織は、全力で横っ飛びしていた。
直後、一瞬前まで伊織がいた場所に砲弾のような突進が突き刺さり、地面が爆発したように抉られた。硬い地面をゴロゴロと転がりながら、尻餅をつく形で停止する伊織。陥没した地面に少し青ざめながらもすぐに態勢を立て直す伊織。
脳筋雪男は余裕の態勢でゆったりと立ち上がり、再度、地面を爆発させながら伊織に突撃する。
伊織はさっきの大木を器用に利用しながら何度も雪男の攻撃をかわす。しかし、雪男もそれなりには知性があるようで大木を破壊する。
(くっ!大木がないんじゃ攻撃をかわせない!こうなったら第二段階に賭けるしかない!!)
されど、大木を破壊されてから数秒間の間仕掛けられる攻撃を全てかわし切った。
伊織は自分の小さな掌を呆然と見つめる。
(どうして、俺は奴の攻撃をかわせるんーーもしかすると、これが『超速暗記』で相手の今までの動きを見て体が勝手に奴の動きを見切っているのでは!?)
雪男は自分の攻撃がヒットしないことにムシャクシャしたのか黒板を爪でかいたような耳を塞ぎたくなる声を上げる。
伊織は必死に攻撃というものを連想する。その時、雪男の熊のような爪が伊織の頭の上から振り下ろされた。
本人が最も驚いたが伊織が真下に目をやると地面と雪男がそこにはいた。伊織はあの一瞬の隙に「ここで死ぬわけにはいかない」と強く願ったのだ。そして意識が覚醒すると宙返りしていた。
伊織はよくは分からないが、戦闘スキルを手にしていた。何となくできるような気がして、伊織は日本の時山ほど見ていたオタクの産物の中で戦闘の時最も使用されていた稲妻を鋭槍のようにしようとイメージをした。
強く握りしめていた右手の掌にバチバチとプラズマが走る。それを昨日の男のように掌を前にかざした。
それは一瞬の出来事だった。プラズマが雪男の左胸を貫き、雪男は断末魔の叫びを言うことなく事切れた。
そして、雪男が動かなくなることを確認した後、力を抜き稲妻を消す。伊織はフッと溜息を吐きつつ、雲の隙間から漏れる光を眩しげに、未来を見るように眺める。
ユニークスキル『記憶』それは灼眼の勇者、瀬良伊織を最強勇者とする第一の力となるのに一歩を踏み出したのだった。
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