プロローグ
雲一つない快晴の空の下、急速に小さくなっていく光。無意識に手を伸ばすも掴めるはずもなく、とてつもない消失感の前に膝をつきながら、瀬良伊織は恐怖と憎しみに歪んだ表情で消えゆく光を凝視した。
伊織は現在、王国の境界線、王国の北門であるソールズ大門において、その外側へと絶賛強制追放され中なのである。目の前に見える光は二枚の門の隙間から漏れる光だけだ。
スキルの調査中、あまりの低スペックスキルに、敵国のスパイであるという壮大な勘違いをされた伊織は、ついに光を遮断した門の前で静かな風を感じながら、唐突な魔方陣による転移による意識の低下によって、走馬灯を見た。
ファンタジーとはかけ離れた現代社会である日本国の日本人であるはずの自分が、ファンタジーという夢と希望が詰まったと、言葉で表すには些かハードすぎるこの世界にやってきて不平等のあれこれと、現在進行形で味わっている不幸までの経緯を。
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月曜日、それは一週間で最も憂鬱なサザ⚪︎さん病とも呼ばれる始まりの日。きっと世間一般的な人が、これからの一週間に溜息をつき、前日までが遠い昔の楽しき思い出のように想ってしまう。
そして、それは瀬良伊織も例外ではなかった。ただし、伊織の場合、単に面倒というわけではなく、学校の居心地の悪さが多分に憂鬱への原因に含まれていたが。
伊織は、いつものようにまだあまり生徒が来ていない時間に登校し、寝不足でふらつく体をなんとか動かし教室の扉を開けた。
伊織のこの些細な努力により、教室の平和は一線を超えていないとも言える。
どうして彼が開門とともに学校へと入るのか。それは、教室に入った瞬間、教室の男子生徒の大半から舌打ちやら睨みを頂戴することになることを阻止するためだ。
何も考えなくていい、誰もいない空間を清々しい気分で歩きながら、自分の席へと歩く伊織。しかし、毎度のことながらクラスの中でも面倒な奴らがそのすぐ後に教室へと入ってくる。
「よぉ、キモオタ!また、徹夜でゲームか?それともラノベか?どうせエッチなやつ読んでんだろう?」
「うわっ、キモ~。エロ同人で徹夜とかマジでキモいじゃん~」
一体何が面白いのかゲラゲラ笑い出す男子生徒たち。
声をかけてきたのは鈴木貴斗といい、毎日飽きもせず日課のように伊織に絡む生徒の筆頭で、名前の通りプライドの高い人間で、例えるならばス⚪︎夫が高校生になったのような人間だ。近くでバカ笑いしているのは、相澤響、熊谷雅人の二人で、大体この三人が伊織に絡む。
貴斗の言う通り、伊織はオタクだ。とは言っても、キモオタと罵られるほど身だしなみや言動が見苦しいと言うわけではない。髪は短く切りそろえられているし、寝癖もない。コミュ症という訳でもないから積極的ではないものの受け答えは明瞭だ。大人しくはあるが、陰キャ感は感じさせない。単純に創作物、漫画や小説、ゲームや映画というものが好きなインドア派というだけだ。
世間一般では、オタクというものへの風当たりは確かに強くはあるが、本来なら嘲笑程度はあれど、ここまで敵視されることはない。では、なぜ男子生徒達が伊織を目の敵にするのか。
その答えが彼女だ。
「おはよう!瀬良くん。今日も早いね。何か早起きする秘訣とか理由とかがあるの?」
ニコニコと微笑みながら一人の女子生徒が伊織のもとに歩み寄った。このクラス、いや学校でもフランクに伊織に接してくれる数少ない人であり、この事態の原因でもある。
名を椎名茜という。学校で二代女神と呼ばれ男女問わず絶大な人気を誇るとてつもない美少女だ。肩に届かないくらいの長さの艶やかな黒髪、透き通った水晶のような瞳は彼女の性格のようだった。スッと通った製図の中心線を入れたような滑らかなラインの鼻、そして薄い桜色の唇が完璧な配置で並んでいる。
いつも微笑を欠かさない彼女は、非常に面倒見がよく、責任感が強いため学年問わずよく頼られる。それを嫌な顔一つせず淡々と引き受けては期待に応えているのだから、高校生とは思えない懐の深さだ。
そんな茜はなぜだかよく伊織を構うのだ。いつも早くに登校し、それなりに上位の成績を安定してとっている上に、運動神経もそれなりの伊織だけれど、何をするにしてもやる気を見せないことをもったいないと思っていることから彼女が気に掛けていると思われている。
これで、伊織の授業態度が改善したり、あるいはイケメンなら茜が構うのも許容できるのだろうが、生憎、伊織の容姿は極々平凡であり、好きこそ物の上手なれを座右の銘としていることから態度改善も見られない。
そんな伊織が茜と親しくしていることが、同じく平凡な男子高校生達は我慢ならないのだろう。「なぜ、あいつだけ!」と。女子生徒は単純に茜に面倒を掛けていることと、なお改善しないことを不快に思っているらしかった。
「あ、ああ。おはよう椎名さん」
これが、殺気か!?と、言いたくなるような視線の雨に晒されながら、伊織は頬を引きつらせながら挨拶を返す。
それに嬉しそうな表情をする茜。「なぜ、そんな表情をする!」と、伊織はさらに突き刺さる視線に冷や汗を流した。
伊織は不思議でならなかった。どうして、学校のアイドルが自分に構うのかと。どうにも伊織の目には茜の性分以上の何かがあるようで思えなかった。
しかし、まさか自分に彼女が恋愛感情を抱いているなどと自惚れるつもりは毛頭ない。確かに自分は多種多様にいろいろなことをさらっとできてしまう器用さを持ち合わせているけれど、自分なんて足元にも及ばないようなすごいことができる奴や顔立ちが整った奴なら彼女の周りにはいる。故に、彼女の態度が不思議で堪らなかった。
というか……この殺気の嵐にどうか気付いて!!と内心懇願する。けれど、口には出さない。出せばきっともっと面倒なことになるだろうから……
伊織が会話を切り上げるタイミングを図っていると、三人の男女が近づいてきた。先程言った「すごい奴ら」だ。
「瀬良くん。おはよう。毎日大変だね」
「茜。また、彼の世話を焼いているのかい?全く……本当に君は優しいな……」
「全くだ。そういう奴はいつまでもそうなんだよ」
三人の中で唯一挨拶を交わした女子生徒は二代女神のもう片方だ。名前は榊原 神奈だ。茜の親友で、後ろで髪を一つにしているポニーテールが彼女のトレードマークである。吊り上がったキリッとした細い目をしているが、その奥には柔らかさを感じるためか美少女というよりは美女という印象を与えられる。その上彼女は、部活の弓道では全国でもトップレベルの実力を誇っており、雑誌などでは「可憐な舞姫」などと紹介されたりすることもある。
次に些かくさい台詞で声をかけたのが、一ノ瀬光。彼は名前の通りの、容姿端麗、成績優秀、スポーツ万能の完璧超人だ。
さらさらの茶髪と優しげな瞳、百八十後半という高身長に細身ながら引き締まった体。誰にでも優しく、正義感が強い。
ちなみに茜や神奈とは幼馴染みである。
これだけ言われれば当然な気もするが、一緒にいる二代女神の存在に気後れして告白には至っていない人が多いとはいえ、一ヶ月に二度は告白されている筋金入りのモテ男だ。
最後に投げやり気味な言動の男子生徒は二階堂剛だ。光の親友で、短く刈り上げた髪に鋭さと陽気さを持ち合わせたような瞳、百九十センチ以上ある身長に熊の如き大きな体、見た目に反さず細かいことは気にしない脳筋タイプである。
剛は『ザ、青春』が大好きで、伊織のように学校に来ても寝てばかりでやる気のない人間が嫌いらしい。現に今も伊織を一瞥し、興味がないというようにそっぽを向いている。
「おはよう。榊原さん、一ノ瀬くん、二階堂くん。まあ、自業自得とも言えるから仕方がないよ」
神奈達に挨拶をして苦笑する伊織。「てめぇ、何勝手に、榊原さんと話してんだ?アァッ!?」という言葉より明瞭な視線が突き刺さる。
「それが分かっているなら直すべきじゃないか?いつまでも茜の優しさに甘えるのはどうかと思うよ。茜だって、別に暇じゃないんだから」
光が伊織に忠告する。光の目にもどうやら伊織は茜の優しさを踏みにじる嫌な生徒だと認識されているようだ。
伊織としては「甘えたことなんてないよ!むしろ無視してくれ方がありがたいんだけれど!?」と声を大にして言いたかったが、そんなことをすれば、待つは恐怖の末路だけだろう。光自身、思い込みが激しいところがあるため反ろうしても無駄であろうことも口を閉じさせられる原因の一つだ。
そして、「直せ」と言われても、伊織は趣味を中心に動くことに何ら躊躇はない。何せ、もう彼はインターネットを通して書いた物語が書籍化されて、その本もそれなりに売れてしっかりとお金を稼いでいるのだ。その上、それ関係のところでバイトとしても重宝されている。
こんな感じで趣味中心の将来設計はバッチリである。伊織としてはしっかり人生設計しているので誰になんと言われようと今の生活スタイルを変える必要性はないように思えた。茜が伊織を構わなければ、そもそも物静かな一生徒で終わるはずだったのである。
「いや~、あはは……」
それ故に、伊織は笑ってやり過ごそうとする。が、今日も変わらず我らが女神は無自覚で地雷を踏む。
「?光くん、何を言っているの?私が瀬良くんと話したいから話しているだけだよ」
ざわっと教室が騒がしくなる。男子生徒達はギリギリと歯軋りをしながら呪い殺さんばかりに伊織を睨み、貴斗達三人衆に限っては伊織を今後どうするか、話し合っている。
「え?……ああ、本当に茜は優しいよな……」
どうやら光の脳内では茜の発言が伊織を気遣ったと解釈されたようだ。完璧超人が仇となったかと彼の自分を疑わない点をひどく厄介に思う。そして、伊織は現実逃避気味に青空を眺めた。
「……ごめんなさいね。二人とも悪気がある訳じゃないのだけれど……」
この場で最も常識人であって、この場で最も人間関係や各人の心情を把握している神奈が伊織にこっそりと謝罪する。伊織は「大丈夫だよ」と彼女にアイコンタクトをとりながら苦笑した。
そうこうしている内に始業のチャイムが鳴り担任教師の紫藤先生が教室に入ってきた。生徒間で広がるそんな空気を彼女が知るはずもなく、素早く朝の連絡を済ませ何事もなかったかのように授業が開始され、同時に伊織は机の木目を凝視する時間が始まった。
そんな伊織の姿を見て、茜は優しく微笑み、神奈は茜を見て微笑み、男子達は舌打ちを、女子達は軽蔑の目を向けるのだった。
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教室のざわめきに伊織は意識が覚醒していくのを感じた。居眠り常習犯でもあり、確信犯でもあるため起きるべきタイミングは体が覚えている。その感覚から言えばと舞うやら昼休憩に入ったようだった。
伊織は、突っ伏していた体を起こし、朝握ってきたおにぎりをゴソゴソと取り出す。
なんとなく教室の風景を見渡してみるといくらか生徒数が購買組なのか減っていた。それでも、全体的にみると弁当派が多いためクラスの三分の二くらいは教室に残っており、それに加えて次の授業の化学の教師でもあり、担任でもある紫藤静香先生(27歳)が教壇で数人の生徒と談笑していた。
昔からのサッと食べられるで有名なおにぎりで午後のエネルギーを素早く補給した伊織はもう一眠りするかと机に突っ伏そうとした。だが、そうはさせまいと我らが女神が、伊織にとってはある意味悪魔が、ニコニコと伊織の席に寄ってくる。
伊織は内心「しまった!」と思った。月曜日ということもあり少々寝ぼけていたようだ。いつもなら、校舎裏の花壇の横でちょうど風向きが変わるのを味わいながら昼寝というのが定番なのだが……
「瀬良くん、珍しいね、教室にいるの。お弁当?よかったら一緒に食べない?」
再び意図せず不穏な空気が教室の空気を凍らし始める中、伊織は内心悲鳴を上げる。いや、どうして俺に構うんですか?と言った感じで。
伊織は抵抗を試みる。それはもう全力で、自分の教室での環境を少しでも守るために。
「あ~、誘ってくれてありがとう、椎名さん。でも、もう食べ終わっちゃったからさ。一ノ瀬くん達と食べたらどうかな?」
そう言って、食べ終えて畳んだサランラップのゴミをひらひらと見せる。「何様のつもりだ」ともなりかねないが、昼休憩中、永遠針のむしろじゃないと考えたら、そっちの方が断然いい。
しかし、その程度の反撃など恐るるに足らないとも言いたげに女神は追撃をかける。
「えっ!お弁当それだけなの?ダメだよ、ちゃんと食べないと!私のお弁当分けてあげるね!」
もう勘弁してください!降参です。俺の負けでいいですから!どうか周りの視線と空気に気付いて!!
刻一刻と増していく圧力に伊織が冷や汗を流していると、救世主が現れた。
「茜。こっちで一緒に食べよう。瀬良はまだ寝足りないみたいだしさ。せっかくの茜の美味しい弁当を寝ぼけたままのやつが食べるのなんて俺が許さないよ?」
的を得ているようで全く的を得ていない台詞を爽やかに笑いながら言う光を茜はキョトンとした目で見つめる。少々鈍感というか天然の入った彼女には、光のイケメンスマイルも全く効果がないようだった。
「え?どうして光くんの許しがいるの?」
素手聞き返す茜に神奈は思い切り吹き出した。光は困ったな、というような顔で何やら話しているが、結局伊織の席に学校で最も有名な四人衆が集まっていることに変わりはなく視線の圧は全くと言っていいほど弱まることを知らない。
深いため息を吐きながら、伊織は心内で愚痴った。
もういっそ、この四人組で異世界転生させないかな。どう見てもこの四人組、物語におけるメインキャラクターの四人だろうに。……どこかの姫か王か巫女か神かなんでもいいから召喚してくれませんかね~
現実逃避のため異世界に電波を送る伊織。いつも通り、笑顔は正義で退散するかと思い腰を上げたところで……
凍りついた。
伊織の目の前、光の足元から一筋の光の線が溢れ出す。それはやがて、純白の光を放ちながら、円環と幾何学模様を形取った。その緊急事態にすぐに全生徒が気がついたが、金縛りに遭ったかのように誰一人として動くものはいずーーいわゆる魔法陣を注視した。
その魔方陣は見る見る内に拡大した。
鋭い輝きを放つ光の線が自分の足元に到達した時、ようやく硬直が解け悲鳴を上げる生徒達。いまだ教室にいた静香先生が咄嗟に「皆、教室から出て!」と叫んだのと、魔方陣の光が最骨頂に達し、爆発したようにカッと光ったのは同時だった。
数分か、数秒か、光によって真っ白に塗りつぶされた教室が再び色を取り戻す頃、そこには誰もいなかった。蛍光灯が割れ、机や椅子は全てなぎ倒され、弁当やペットボトルの中身が散乱しひどい有様になっていた。
そう、教室の備品は破壊されど存在しているが、そこにいた人間だけが姿を消していた。
この事件は白昼の高校で起きた集団神隠しとして、大いに世間を騒がせるのだが、それはまた別の話。




