旅立ちと光へ
月が夜の闇を奏でる中、彼は靴紐をしっかりと締め、水筒を片手に大地を蹴り上げ、進んでいました。
彼が一歩歩くたびに、ざっざっ、と土を踏む音がします。
その音は、彼を激励しながら、彼を孤独の道へと繋げていく様でした。
村がどんどん遠くへ離れていきます。
真っ直ぐ伸びる一本道と森と静寂は、彼を未見の地へと誘う様に、月に照らし出されていました。
彼はようやく森の入口へと辿り着きました。後ろはもう見ないと心に決めました。後ろを見たって、もう家は見えっこ無い。月が照らす、夜だけが存在するのです。
入口は深い闇を携え、見る者を不安な気持ちにさせてしまいます。闇の先は予想できません。
しかし、彼は躊躇なく踏み込みました。
「予想できないモノは考えても仕方がない。恐怖は考える度に増えていく。」
そう、教えてくれたのは彼の父親でした。
小さい頃、夜のベッドを、夜の厠を怖がる彼にそう伝えていました。
森へ入ると、濃い緑の匂いが鼻腔の奥まで響いてくる様に、一瞬にして彼を森の領域内へと入れてしまいました。
闇の一歩先は闇。つまり、彼が立つその場所以外は暗く、何も見えません。ただ見えているのは彼の場所だけです。
彼は自分の居場所のみを頼りに一歩ずつ前へ進んでいきました。
どこまで続くのか。時折、何かの甲高い鳴き声がしてきます。
「高い鳴き声のモノは心配しなくて良い」
と教えてくれたのは彼の母親でした。
「高い鳴き声は、小さいモノ。小さいから、遠くへ声を響かせるのに精一杯喉を細めて、声を高くするのよ。だから心配いらないのよ」
彼の頭の中には、その時の母の言葉を何度もリフレインさせ、歩く勇気に変えて先へと歩を進めます。
彼はしばらく歩くと、大きな木の幹につまづいてしまい、肘に激痛が走ってきました。
肘を触ると何か液体が付いた様です。きっと血が流れているんだろう。と、彼は思いました。そして目を瞑り思い出すのです。
「心臓より遠い場所の怪我は大した事ない。そこが動けば問題ない。気にすれば気にするだけ痛みと恐怖がやってくる。だから、その怪我を洗い流す時まで気にすることはない。」
と教えてくれたのは彼の父親でした。
「大きい木の幹の下は安心だ。それだけ大きいってことは、それだけ長生きだって事だからな。もし何処かに迷ってしまったり、休みたくなったらその幹に腰掛けると良い」
といったのはお酒を飲んで顔を真っ赤にしたドゥンガさんだった。
彼は少しの間、木の幹に座って休む事にしました。家から持ってきた水筒から水を体に入れると、彼は自身の奥まで水が浸透していくのを感じました。毎月祈りを捧げる、自然の事を思い出します。
私たちは、自然と共に生き、自然に生かされている。彼はその水で初めて実感を持ちました。
座っていると森には様々な気配がする事に気が付きました。何かかが飛び立つ音、虫の鳴く声、遠くで風とは違う何かかが葉を揺らす音。
その様々な気配を感じ取る様に考えていると色んな事を考えてしまう様になりました。
もしも、3つ首の犬がいたら、自分は首を噛みちぎられて血が一杯噴き出し、いずれくびと胴体が別々になり、三つの顔のいずれもで自分の体が食べられてしまうのでは無いか。
もしも大男がいたら、彼がモノを言う間も無く、足元にいる蟻の様に潰されて、自分の体はぺしゃんこになり、脳みそや体の中にある様々なモノがぐちゃぐちゃにはみ出して死んでしまうのでは無いか。
もしも人を惑わす老婆がいたら、自分は気が付かないうちに同じ木の周りを回り、とっくに日が出ているのにも気が付かずに命が果てるまで回り続けて、もう心臓が動かなくなるまで歩き続けて、とうとう倒れてから大釜で煮て食べられてしまうのでは無いか。
彼は、死を意識してしまいました。
喰われたら、踏み潰されたら、惑わされ森の一部にされてしまったらどうしよう。
一度流れ出た恐怖はあっという間に彼を支配していったしまいました。
もし、次の一歩目を失敗してしまったら。
彼は、もう今座っている木に頼るしか無くなってしまいました。
肘を触れてみると、まだ血が流れている様で、その触った指先を濡らしています。もしも、このまま血が出続けてしまったら。
もしも、もしも、もしも。。。
彼はどの位恐怖と共にいたのでしょう。誰にもわからないくらい長い時間彼は恐怖に怯えてしまっていました。
ベッドから抜け出さなければ、今日が満月じゃ無ければ。この森に入らなければ、こんな気持ちにはならなかった。
彼は目を閉じて、とうとう俯いてしまいました。
俯いた時にふと彼の頭によぎったのは、彼女から、ソアラから流れる一粒の雫でした。
それは、美しい音色を立てて、彼の心へと落ちていきました。
砂の様になってしまっていた彼の心は、一雫分、安らぎが出来ました。
そして彼女が言った言葉を思い出しました。
「クラウド、貴方と居れなくなるのが寂しい」
彼は顔を上げました。
そして、彼は自分の使命を考えます。
彼は、唯一の灰色の髪をした人間で
彼にしか出来ない事がある。
彼は、ソアラを、そして両親や村の人を思い出し目を開きました。
ソアラが握った手を思い出します。暖かくて優しい思い出が、手から足から、頭から、体全体から思い出されます。
彼はついにその手で大地を押し上げ、自分の行くべき道を探しました。自分の目でしっかりと前を向いて。
もう、かなり月が傾いているのでしょう。森の一部だけ、光が差している方がありました。それは月の光か、日の光か。どちらにしても、それは彼が目指すべき場所だと思えました。
そして、彼は光へと向かい歩き出します。
恐怖や色んな、もしも、を木の幹に置いて行き、彼は自分の使命を果たすべく歩き出しました。
途中何度転んだでしょうか。何度暗がりから音がしたでしょうか。何度聞き覚えのない声を聞いたでしょうか。
しかし、彼は一歩ずつ、前に前に進んでいきました。
しばらくすると、森の闇が終わりを迎えました。
それは突然で、彼は何度も辺りを見回し、森の終わりを確認しました。
目の前には目指している高い丘と、その真上にかかる大きな満月が彼の目の前、一杯に広がっていました。
彼は、森の最後の木に寄りかかり、二つをじっと見とれていました。
それはまるで、絵本に書いてある様な美しい景色が、彼の眼前に広がっています。
それは雄大で、全ての自然を見守っている様でした。
彼はそれをただただ、見惚れてしまっていました。
どれほど時間が経ったのでしょうか。
気がつくと月は丘の下に消えかかり、朝日が大地を照らそうとしていました。
彼は急いで立ち上がり、丘へと向かってしっかりと大地を踏んで歩き始めました。
もう、恐怖心や後悔などは一切無くなっています。
後は、丘を登るだけです。
目の前には、彼の旅の終わりを告げようと、朝と夜が融合して、その場で待ち構えているようでした。
あと少しで丘に登る時、その丘の天辺に光が一筋、差してきました。
今日と昨日の間。
二つの世界が混じり合い、そして光が彼を誘っています。
彼は残った力を振り絞り、足を思い切り高く上げ、手を大きく振り、力の限り走りました。
彼の使命はあの光によって遂げられようとしています。
一筋の光と、薄く残る夜の余韻。
彼だけが、そこで生きていました。
全ての命の象徴でした。
彼はとうとう、丘を登りきり光へと飛び込んで行きました。
光は真っ直ぐ彼だけを差し、包み込んで行きます。
彼が見た光は、あらゆるものを溶け込ませ、この世の全てとなって行きました。
彼は丘の上で天を仰ぎ、全ての恩恵と一体となりました。
彼の体はやがて光の祝福に溶けて行きます。
やがて手が、足が、腕が、そして、彼そのものが光となり、天へと登り、全ての大地を照らしています。
彼は使命を遂げました。
彼は偉大なる天の、皆を守る神となりました。
彼の眼前には、広大な草原が見えています。
今通ってきた森がどんどん小さくなって行きました。こうして見ると、まるでそこには恐怖など微塵もない様に感じます。
そして彼は自らが住んでいた村を照らします。
母が泣いて天を仰いでいます。
父はその横で優しく手を添えています。
ソアラは村の人達を集め、何かを話しています。
全ての人へ、感謝を込めて、この土地を見守る事への喜びが押し寄せて来ます。
こうして、灰色の髪の毛の少年は伝説となってい来ました。




