助ケテ
潮騒の音で目が覚めた。
枕元のスマートフォンの電源をつけると、AM01:11という文字が浮かび上がる。ゾロ目か。嫌な時間に目が覚めてしまったな。こんな時間だというのに、寝室はいやに明るい。窓から青白い光が差して、つるんとした無機質な床にレースカーテンの網目模様を映していた。この別荘の付近に電灯はない。きっと、月が出ているのだろう。満月かもしれない。
月を見ながら一服でもしよう、と、私は起き上がった。
バルコニーに出てみると、やはり空には立派な円い月が昇っていた。黒い海には、一本の白い光の道があつらえられている。あれを渡ってどこか遠いところにでも行きたいな、と柄でもなくロマンチストじみたことを考えながら、指で箱を軽く叩き、煙草を一本取り出した。少し風があるので火がつけづらい。手をかざして何度かカチカチとライターを鳴らすと、やっと一条の煙が上った。
静かである。絶えず波の音はしていても、この空間は「静けさ」というものに閉じ込められている気がした。まるで世界に私ひとりしかいないようだった。こんな場所でぼんやりと紫煙をくゆらせていると、嫌でもあのことを思い出してしまう。
「貴方は優しすぎるのよ」
それが、彼女が最後に私に言い放った言葉だった。優しすぎるって何だよ、と思わず呟く。思えば昔から私は「お人好し」だとか「いい人」などと言われることが多かった。煙草を吸い始めたのは、そのなよなよとしたイメージを少しでも払拭したかったがためでもある。「暴力的」なら分かるが、まさか「優しすぎる」なんて理由で振られるとは。確か、高校時代に一度だけいた恋人にもそんな理由で振られたのではなかったか。
――じゃあどうすれば良かったんだ?
はあ、と大きくため息をつく。投げやりに吐き出された煙は、とどまる暇もなく風にさらわれ、海の方へ消えていった。
「―――――ァ―――――ォ」
ふと、何かが聞こえた。人の声のようにも聞こえたが、気のせいだろうか。時間が分かるものを持っていないので正確には分からないが、恐らく今は午前二時前頃だろう。この時間、この辺りに人が来るとはあまり考えにくい。なんだか寒気がした。既に四本ほど吸い殻の入っている灰皿に、吸いさしを押し付ける。もう部屋に戻ろう。そう思い窓に手をかけたとき、それは確かに聞こえた。
「誰カ――――――」
甲高い、女の声。悲鳴のようであるが、何となく、人間味が感じられないような。例えるなら、そうだ、夏祭りの、
「助けテ―――――」
水笛。安っぽいプラスチックから繰り出される、あのキンキンした、しかし不思議なしなやかさも持つあの音だ。声は向こうの磯のほうから聞こえていた。誰か溺れているのか?
バルコニーを飛び出し、私は急いで階段を降りた。玄関を出て、声のする方へ走り出す。月は冷ややかな貌で、静かにこちらを見下ろしている。砂に足を取られ、何度か転びそうになった。こんなに走ったのはいつぶりだろう。息が切れている。とはいっても、まだ別荘からそう離れていない。私ももう若くはないんだな、と痛感した。
「誰カ――――抜ケなイ――――」
声が近い。というか、今なんと言った?抜けない?
はあはあと荒い息を吐きながら、岩場へ近づく。
「抜ケナイノ……誰カ助ケテ」
声は割れた笛のように、すっかりしおらしくなっている。
「大丈夫ですか」
岩に波が打ち付け、銀の泡が飛び散る。声の主はどこにいるのか。周囲を見渡すが、人らしい影は見当たらない。大丈夫ですか、と繰り返し声をかけながら駆け回っていると、黒い波と岩の間で蠢く白いモノが目に入った。乳白色のそれは、月明りを受けてぬらぬらとした淡い光を放っている。魚、なのだろうか。ひれが付いている。頭のほうは岩の隙間に挟まっているらしく、ほとんど尾しか見えていない。まさか……な。私はゆっくりとそれに近づく。足が濡れるのは構わなかった。
「誰カ――」
その声は、確かにその魚のようなモノから発せられていた。私は恐る恐るそれに手を伸ばす。子供の頃、近所の寺の池で見た、嘘のように大きな鯉を思い出していた。たぶん同じくらいの大きさだろう。
意を決して、その白い尾を掴む。ぬるっとした感触が手に伝わった瞬間、それはビチビチと激しく動き出した。思わず、うおっと声が漏れる。私は奇声をあげる白い生物を、ちぎれないよう気を付けながら引っ張った。手応えはある。だんだんと腹が見え――――――。
それは、まさしく人間の腹だった。
ヘソこそないが、このくびれと柔らかな肉付きは、いかにも女のそれである。今私が岩の隙間から引っ張り出しているのは、喋る魚ではない。人魚だ!
いつになく、胸が高鳴っている。自然と尾を持つ手に力が入る。目の前の生きモノの奇声のボリュームが上がった。ああ、ごめんよ。私は少し手を緩め、ゆっくりとそれの全貌を月下に晒してゆく。
目が合った。それ――人魚の動きが止まる。白目はない。濡れた瑠璃の玉が、そのまま嵌まっているようだった
「イ……嫌、食ベナイで」
腕の中で、白い人魚はまた暴れだした。しかし逃げようとすればするほど、押さえる私の腕にその絹糸のような髪が絡みついてしまう。
「食べないから!」
つい大声を出した。彼女は元々大きな目を皿のように見開いて、ポカンと口を開けている。
「コ……コトバ、分カるの?」
彼女は、か細い声でそう呟いた。
「え?」
「アたシたチの言葉、ニンゲン、分カらなイって、聞いタ」
人間は人魚の言葉を理解できないということか?そんなはずは。第一、私の言葉も通じているじゃないか。
「いや、分かるよ。そもそも助けてとか、抜けないとか聞こえたからここに来たんだ」
それを聞くと、人魚は「ア……」と小さく声を漏らし、目を逸らした。白磁の頬が、心なしか紅く色づいている。人魚も照れるのか。その人間の少女のような仕草に、思わずどきりとする。私は彼女を抱きかかえているのが急に気恥ずかしくなり、そっと水に降ろした。
彼女は水面から首だけ出し、星の散る眼で私を見据えた。真っ白な髪は扇状にひろがり、浮き草のようにたゆたっている。
「あノ……助ケテくれテ、アリがトう、ごザイまシタ。良イ寝床だト思って飛ビ込んダら、その、挟まっテシまっテ」
いえいえ、と答え、私はその愛らしい生き物に向かって微笑んだ。彼女の表情も、少し緩んだような気がした。
彼女はぷかぷかと浮かびながら、ぽつり、ぽつりと自分のことについて話してくれた。つい最近、たくさんのきょうだいたちと共に生まれたこと。すみかを求めて、この辺りまで群れで泳いできたこと。先ほどの悲鳴は、仲間に向けてのものだったのだ。
この時期は、どうやら人魚が一斉に孵る時期らしい。そしてこの辺りは、生まれたばかりの人魚たちの通り道になっているということだった。
「でハ、ソロそロアたシは別の寝床ヲ探シニ行きまス。アリがトう。サようナら――――」
「ああ、気を付けてな」
私はきらめく彼女の白い背を見送った。夢か現か、というのはこういう気分のことをいうのだろう。傾いた月を横目に、ふわふわとした足取りで別荘へと戻った。
しかし、その夜の出来事は、まぎれもない現実であった。
次の晩、私はまた、夜半に目を覚ました。水笛のような悲鳴が聞こえる。私は昨晩の岩場へ急いだ。
――――私が目にしたのは、岩に挟まった大量の人魚だった。
その次の晩も、私は悲鳴で目を覚ます。
その次の晩も。その次の晩も。
「貴方は優しすぎるのよ」
彼女の声が聞こえた気がした。
私は111匹めの白い尾を掴んだ。