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桃園結義異聞  作者: 胡姫
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公孫瓉(こうそんさん)

入塾は、ひと月後と決まった。

徳然は以前よりも足繁く劉備の家を訪ね、支度のあれこれの世話を焼きたがった。行くといった以上、劉備も断るわけにいかず、自然友達と遊び歩く機会もぐんと減っていった。

徳然の母、金蓮は、この話に大反対したらしい。

「一族だって家計は別でしょ!何で玄徳の学費までうちで出すの!」

と、ものすごい夫婦喧嘩を繰り広げたという話だった。

しかしこの件では、珍しく劉元起ががんとして譲らなかった。徳然も懸命に頼み込んだ。泣き落とし、ハンスト、しまいには劉備が行かないのなら自分も行かない、と最後通告を出した。

それでも渋る金蓮だったが、そのうち誰が広めたのか劉家の親戚中に話が広まり(おそらく徳然だろう)、後には引けなくなって、ようやく金蓮も折れたのだった。

「助け合いの精神、というのが理解できないのですよ。母は、漢民族の考え方に疎いところがありますからね。」

徳然は何でもないことのように笑ったが、小香は金蓮の気持ちもわかる気がした。

反対の理由は、学費の負担だけではない。せっかくの大チャンスなのだから、ライバルは少ない方がいいに決まっているのだ。誰だって自分の息子が一番かわいい。

盧植の私塾は、同じ涿県だが、県城からやや離れた郊外にあった。町の寺子屋とはわけが違うので、楼桑村から毎日通うわけにはいかない。

実に千人以上の塾生を抱える大人気の塾ということもあり、私塾のまわりは遊学の塾生たちであふれていた。さながら盧下塾城下町。劉備と徳然も、安い貸家を探して下宿することになっていた。

有名人の塾に入るということは、他国に留学するのと同じくらい金がかかったのだ。


貸家探しやら買い出しやら、入塾までにやることは多い。

この日、劉備は徳然と連れだって、涿県で一番大きな市場に来ていた。

楼桑村の近くにも非公式の小さな市はあるが、ここは城門に覆われた列肆(れっし)という県公認の市場である。

当然、規模も人出も桁違いである。

土地はこまかく区画整理されており、肉屋の区画、八百屋の区画といった具合に一区画ごとに分かれ、商品のすべてに値札が付いていた。

「すげえな。うちのいい加減な市とは大違いだ。」

劉備は初めて見る市場の規模に,感嘆の声を上げた。

楼桑村近くの市など、値札はなんてしゃれたものは絶対に付いていないし、店も掘立小屋みたいな簡素なものばかりである。ゴロツキどものたまり場でもあり、劉備が弟分の張飛に出会ったのも市であった。

「そんなに喜んでもらえると、連れてきた甲斐がありますね。」

「見ろよ、異国のものもあんなに並んでる。本当に何でもあるんだな。」

劉備は目を輝かせ、人込みでごった返す中を、糸の切れた凧のように歩き回った。

「あまり歩き回らないでください、迷子になりますよ。さあ手を。」

どさくさにまぎれて徳然は手をつなごうとしたが、その前に劉備はまたどこかの店に吸い寄せられていった。

そこへひときわ大人数の集団がどやどやとやってきて、徳然の行く手をさえぎってしまった。聞き慣れない他国の言葉が声高に行きかう中、徳然は劉備を探して人込みをかき分けた。

「玄徳!」

気付けば劉備の姿はもうどこにも見えなくなっていた。隣の店にも、その隣の店にもいない。

徳然は焦った。やはり紐でもつけておくべきだったか。

「本当に、繋いでおかないと、あなたはすぐにいなくなってしまうから…。」

徳然は力なくつぶやいた。この日のために入念に下見をして、劉備の好みそうな店をリサーチし、ようやく買い出しを理由に誘い出せたのに…。

劉備とふたりでしたいともくろんでいたもろもろの計画が、徳然の脳裏に浮かんでは消えていった。が、こうしてはいられない。

徳然は劉備を探して、市場を走り回り始めた。


ちょうどその頃、劉備はとんでもないトラブルに巻き込まれていた。

通りの反対側に、見たことのない異国の文様の布地を見つけた。劉備は流行の服などのファッションに目がない。思わず立ち寄り、あれこれ手にとるうちに、奥の路地できらりと光る宝玉らしきものが目に入った。

人一人通れるか通れないかくらいの細い路地を進むと、雑貨屋らしい露店があった。美しい玉をちりばめたかんざしや、きらきら光る糸を使った靴や巾(帽子)などが、店先に無造作に置かれていた。

「若いの、こんなもんがお好きかい。将来ろくな大人にならんよ。」

店の奥に、ひどく背の低い老婆が座っていた。足が悪いのか声をかけたきり動こうともしない。

劉備は構わず物色を始めた。どれも驚くほど安い。まがいものばかりなのだろう。しかし美しい。

夢中になって見ていたため、背後の気配に気づくのが遅れた。

どん!!

突然ものすごい衝撃が劉備の背中を襲った。

あまりの衝撃に一瞬息が止まった。劉備は声もなく前のめりに倒れた。

痛めた背中を、何者かが乗り上げていった。全体重をかけられて、劉備は体を海老反りにそらせて断末魔のうめき声をあげた。

ちらりとその人物が振り向き、目が合った。想像よりずっと若い。涼しげな、凛とした瞳。長い睫毛。

「こら、何するんだい!」

老婆が叫ぶのと同時に、奥から新鮮な風がどっと入ってきた。裏口が開けられたのだ。

劉備はようやく立ちあがり、痛む背中に手をやった。べとり、と生ぬるい液体が手のひらについた。

――血。

その瞬間、劉備の頭の中で何かが切れた。

「畜生!」

叫ぶなり、劉備は今開けられたばかりの裏口へと走った。不思議と背中の痛みは消えていた。

――誰だか知らないが、この俺をこんな目にあわせたやつ、ただじゃおかねえ。

劉備は犯人を追って、ひた走りに駆けた。


あとで考えれば、もし本当に背中に大怪我をしていたらこんなに動けるはずはないのだが、頭に血が上った劉備はそこまで気が回らなかった。

大怪我をした(と思い込んでいる)劉備は、路地から路地を走りまわり、やがて急に視界がひらけたかと思うと、広い水場に出た。

公共井戸である。

そこに、体格の良い男が三人、一人の若者を取り囲むように立っていた。

何やらもめているのか、時折罵声や、女みたいな顔しやがって、とか言う声が聞こえてくる。

何気なく中央の若者に目をやった時、劉備の足が止まった。

あいつだ!

顔は見えないが、着ている上衣と長綬(帯)の柄に見覚えがある。ことファッションにかけては、劉備の記憶力は抜群であった。劉備は囲まれている若者に近付いた。

「本当は女なんじゃないか。見てやろうぜ。」

その時、ひときわ大きな笑い声とともに、男たちの手が若者の上衣にかかった。

劉備は我が目を疑った。

嫌な音をたてて上衣が引き裂かれた。長綬が抜かれ、若者の白い体があらわになった。

男の一人が若者の後ろに回り込み、細い腕を後ろ手に押さえつけた。若者は激しくもがいたが、男たちの手が上衣の隙間からいっせいに入れられた。下肢にまとう下裳が力まかせにずり落とされ、地に落ちた。

ようやく劉備は状況を理解した。

ーーこの、下衆が。

若者はもがきながら男たちを睨みつけている。無防備な下肢をなぶられて、若者は低いうめき声を漏らした。男たちは行為に夢中で、周りには全く注意を払っていなかった。

劉備はとっさに、身につけていた銭袋を思い切り投げつけた。

貨幣の束は重い。銭袋はあやまたず男の後頭部を直撃した。だてに毎日書物の袋を投げてはいない。

不意を突かれて、男は声もなく昏倒した。

すかさず劉備は背後に回り込み、二人目の男に飛び蹴りをくらわせた。男は汚い悲鳴をあげて井戸に激突し、石造りの角でしたたかに額を打った。眉間から派手に血が噴き出した。

そこまでだった。劉備は背後にいやな気配を感じた。ぞっとするような、不穏な気配。

「おい。…何をする。」

最後に残った男が、怒りに満ちた目で劉備をとらえていた。劉備は動きを止めた。もっとも高そうな服を着た、主犯格の男であった。

若者はその隙に裂かれた服を拾い上げ、敏捷な猫のような身のこなしでするりとその場を離れた。

劉備は男を見上げた。男は長身で、鍛え上げた体格をしており、顔つきにも威厳があった。

年は二十代半ばくらい、劉備よりも十歳ほど上だろうか。まだ子供っぽさの抜けきらない劉備と違い、立派な成年男子の体つきであった。

劉備は迫力に押され、じりじりと後ろに下がった。大人の男とまともに対峙しては、勝てる気がしなかった。

――くそっ。逃げるか。

そうと決まれば行動は速い。劉備は足を狙って逃げようと、足技をかける隙を窺った。

「何だ、まだ子供ではないか。私が公孫瓉(こうそんさん)と知った上での狼藉か。」

狼藉はどっちだ!と劉備は心の中で毒づいた。さっきから男にまるで隙が生まれない。これでは逃げられない。

「よく見れば、なかなか良い顔をしているが…。」

公孫瓉と名乗った男は手荒く劉備の襟首をつかんだ。避ける間もなかった。そのまま片手で劉備を体ごと持ちあげ、ぐいっと首を締めあげた。

「私の邪魔をしたことを、あの世で後悔させてやろう。」

殺される。劉備は男の手に本気を感じた。

まずい。非常にまずい。何とかうまいこと言いくるめて、この場を逃れなければ。しかし男の力はどんどん強くなり、一片のためらいもなかった。

こいつは子供を殺すのに全く容赦のない男だ。

劉備は初めて本能的な恐怖を感じた。底なしの悪意。一片の光もささない暗闇の嗜虐心。

やがて意識がもうろうとしてきた。

不意に男の手が離れた。劉備は地に投げ出され、同時にどっと酸素が入ってきた。劉備は激しくむせた。

目の前に、顔を押さえて激しくのたうちまわる公孫瓉の姿があった。

「走れ!」

劉備は手を取られた。わけもわからぬまま、その手の持ち主と一緒に劉備は走り出した。

ひどくやわらかい、すべすべとした、初めて触れる手だった。

劉備の学費を出す件では、劉元起の妻が大反対したと記録にあります。妻が異民族出身だったから、というのは私の勝手な創作ですが。

盧植の塾って、正確な場所が分からないのですね。どなたかご存じありませんか?

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