徳然の思い
徳然はしばし自分の見ているものが信じられなかった。
卓のこちら側には刃物で喉を突かんと仁王立ちになった小香。
正面には劉備を羽交い絞めにして号泣している父。
何をどうしたらこのような事態が現れるのか。
父は劉備に、この上ない吉報を知らせに訪れたのではなかったのか。
「やあ、徳然。」
劉備はつとめて何でもない風に、作り笑いを浮かべた。
「昼間は悪かったな。せっかく訪ねてくれたのに。」
「それどころじゃないでしょう!」
徳然は猛然と突進して、劉備から父を引き剥がした。ようやく自由になった劉備は大きく深呼吸した。
「父上、酔っ払っていますね!なかなか帰ってこないから、母上がかんかんですよ。」
「おや、わが息子がなぜここに。…何、金蓮が!」
劉元起の顔からさっと血の気が引いた。そして一気に酔いが醒めた。
徳然は小香の手からそっと包丁を取り上げた。こちらは見た目ほど酔っても逆上してもいなかったので、案外素直に凶器を渡してくれた。女優小香の面目躍如。ちょっと気持ちよかったのも事実。
「金蓮は、その、どのくらい怒っておるのか…?」
劉元起は急におとなしくなって、徳然に訊ねた。
彼の妻の金蓮は、気性の荒い女であったが、絶世の美人でもあった。異民族である鮮卑の血を引いており、肌は白く髪は美しい馬の毛並みのような栗色。そう、劉徳然は母親似であったのだ。
ただしそれは若いころの話。金蓮の美貌は年を追うごとに衰えていき、異民族らしい気性の荒さだけがひどくなっていくばかり。劉元起はすっかり恐妻家となっていた。
「それはもう手がつけられないほど。おおかた小香おばさまに、いらぬやきもちを焼いているのでしょう。」
冷静な徳然の言葉に、劉元起も己の非を悟った。
夜分に女所帯を訪ねるなど、誤解を受けるような行為は慎むべきであったのだ。
嗚呼、李下に冠を正さず。劉元起は帰宅後の修羅場を想像し、深いため息をついた。
「さ、帰りますよ。例の話はもう済んだのでしょう。」
徳然に促され、劉元起は屠殺場にひかれる牛のような表情になった。
帰るのは怖いが、遅れれば事態はさらに悪化する。劉元起はよろよろと戸口の向こうに消えていった。
「では玄徳、詳しい話はまたゆっくりしましょう。私が御馳走しますから、」
徳然は劉備ににっこりと笑顔を向けた。そして、付け加えた。
「次は逃げないでくださいね。」
やんわりと徳然にくぎを刺され、劉備はふと、うやむやのうちに入塾の話が本決まりになったことに気付いた。「徳然!」と劉備はあわてて走り寄り、戸口を出たところで徳然の袖をつかんだ。
「ちょ、ちょっと待て、俺はまだ塾に入るなんて言ってない!」
徳然はその袖をすばやくひるがえし、劉備の手を握った。
「遠慮なんていいんですよ。あなたの助けになれて嬉しいんですから。」
「そうじゃねえ!俺は学問なんかに興味はないんだ。」
「玄徳。」
色素の薄い瞳が、じっと劉備を見つめた。深い沼の底のようだ、と劉備は思った。ひきこまれるとヤバイ感じ。
「あなたの学問嫌いは知っていますよ。ずっと見てきたんですから。…ですが、この話は絶対に受けてもらいます。」
「何で。」
「理由は三つ。第一に、あなたのためになります。」
徳然は玄関前の敷石に腰を下ろした。つられて劉備も隣に座った。
「学問はこの先、絶対にやっておいて損はない。九公太守盧植のお墨付きがあるなら尚更だ。あなたもこうした後ろ盾が、就職にどれだけ有利か知っているでしょう。」
劉備は黙った。苦しい家計を考えれば、就職口はいい方がいいに決まっている。
「第二に、あなたが常々口にする、広い世間を見ることができます。」
「世間。…そうか。」
生来の好奇心が、劉備の胸の中でむくむくと首をもたげた。
「ええ。高名な盧先生の塾ですからね。近隣だけでなく、各地から英才たちが集まってくることでしょう。いろんな土地の話が聞けますよ。きっと。」
英才だけでなく曲者も集まってくるかも、と徳然は思ったが、あえて口にはしなかった。
劉備の表情が明らかに変わった。思案気に指先を見詰め、徳然に問うた。
「それで、三つ目の理由は何だ。」
「それは…。」
めずらしく、徳然が逡巡した。夜風が徳然のやわらかな髪をわずかに揺らした。
「…あなたのそばに居られる。」
「は!?」
劉備は頓狂な声を出した。
「あ、いえ、見ず知らずの環境ですし、知り合いがいた方が何かと安心、でしょう?」
「俺は別に気にならないけど。」
深いため息が聞こえた気がしたが、劉備はそれを聞き流した。徳然はよくため息をつくのだ。ここ最近は特に。
「徳然は過保護すぎだ。いつまで俺を子供だと思ってるんだよ。」
「子供だなんて。…子供ならよかったのに。」
徳然は不思議な表情で劉備を見つめた。またあのひきこまれそうな…深い沼底に、ひきずり込まれそうな感じがした。
何かが違う。劉備は本能的に身を震わせた。
「子供扱いなんてしていませんよ。できるわけがないでしょう。」
端正な顔が近付いてくるのを、劉備は不思議な思いで見つめていた。
子供のころは、よく頬をくっつけあって寝たものなのに。今はなぜか不穏な気配がした。
「一緒に行くと言ってください。そうすれば…。」
徳然の声がかすれている。唇が震えている。
その唇が、かすかに自分の唇に触れたのを、劉備は感じた。
はっとした。
「い、行けばいいんだな!」
徳然の唇が離れた。何だ今の。何だ何だ今の。
事故?
そう事故だ、事故。徳然のやつ、近づきすぎたんだ。
ただの事故。よくある事故。
「が、学問は嫌いだけど、世間とか、見てみるのも悪くないよな。お前の家が金出してくれるなんて、すげえラッキー、だし。」
劉備は口が勝手に動き出すのを止められなかった。何だこれしきのこと、と強がりながらも、奥手の劉備は動揺を隠せなかった。
徳然の顔が名残惜しげにゆっくりと離れて行った。一瞬ぎらりと強い光が瞳にさしたが、すぐに消えた。
そしておだやかな笑みをたたえる様子は、いつもの徳然だった。
劉備はようやくほっとして、しゃべるのをやめた。少しでも動揺したのが馬鹿みたいだと思った。大の男が、こんな事故で。小娘じゃあるまいし。
「…よかった。」
徳然がつぶやいた。万感の思いを込めて。
その言葉にどれほどの意味が隠されているのかなど、この時の劉備には知る由もなかった。
十五の劉備はまだ子供で、世間というものを知らず、人の思いというものに真剣に向き合ったことなどまだなかった。
のちに劉備は、この時のことを何度も思い出すことになる。どこで間違ったのか。どうすればよかったのか。
しかしいくら考えても答えなど出なかった。そもそも答えなど、存在していないのだ。
入塾の日が、近づいていた。