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桃園結義異聞  作者: 胡姫
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劉元起、劉備を訪ねる

中国、後漢末、霊帝の御代。

西暦でいうと一七六年にあたるこのころ、長く続いた漢王朝の威光もすっかり地に落ち、各地では小規模な反乱がおこっては鎮圧されることを繰り返していた。

つまりいつもどこかで戦が起こっているという状態である。

戦もあまりひんぱんに起こるとみな戦慣れしてきて、だんだん何とも思わなくなるものである。そしていつしか人心が荒廃してゆく。

とはいえ劉備の住む中国大陸の北のはずれ、幽州涿郡涿県(ゆうしゅうたくぐんたくけん)楼桑村(ろうそうそん)はまだまだ平和で、のちに有名な黄巾党討伐の立て札が立てられるのは、十年以上先のことである。

それでも以前に比べれば物価も上がったし、物騒なうわさも聞くようになった。

曰く、帝の玉座に青い大蛇が落ちてきたとか。

瓜ほどもある大きな雹が三日三晩降ったとか。

大洪水が起きたとか、大地震が起きたとか。云々。

この時代、天変地異は為政者の徳のなさのせい、と信じられていた。


劉備の家は、その漢王室につながる中山靖王劉勝の末裔という話だったが、今は百姓と大差ない暮らしぶりであった。

父の劉弘は地元の小役人をしていたが早くに亡くなり、母の小香が女手一つで悪戦苦闘しながら劉備を育てていた。

幽州は義に篤い土地柄で、劉家の親戚がなにかと援助してくれるので、どうにか生活が成り立っているようなものであった。

劉備の伯父で徳然の父、劉元起も、その一人である。

「こんばんは小香さん、玄徳はいるかね。」

劉元起は散歩帰りのような気楽さでひょい、と顔を出した。もとより小さい家のこと、案内を請うまでもなく庭先から声をかければ事足りる。とはいえ母子家庭を訪れるには遅い時刻だったため、小香はやや困惑気味に客人を出迎えた。

「こんな時刻に悪いね。どうしても玄徳に話があるのだが、もう帰っているかね。」

「玄徳ですか。」

また玄徳。昼間の徳然といい、今日は隣家にずいぶんな人気だわ、と小香は思った。

「つい先ほど帰ってきたようですが、徳然さんと会ったのではないのですか。」

徳然も大事な話があると言っていた。劉元起の用件もそれだろうか。

「それが、徳然が話をすると言うので訪ねさせたのだが、あいにく玄徳と会えなかったというから。」

あの馬鹿息子!と小香はひきつった笑みを浮かべた。追跡に気付いてまいたのだ。さんざんお世話になっている徳然さんをまくとは。

「も、申し訳ありません。今すぐ玄徳を呼びますから、」

小香が言い終わるより先に、戸口に影がさした。

「これは元起伯父上ではありませんか。お目にかかれて大変うれしく存じます。」

襟を正し、姿勢をしゃんと伸ばし、ひょろりと長い手足を優美にかがめて見事な一礼。

まことにすっきりとした理想的な立ち姿。礼をつくした丁重な挨拶。

劉備であった。

この姿だけ見ると、いかにも年配者の好みそうな理想の息子である。もちろんフリだけだが。

つい今しがたバタバタと帰ってきて、小香のお小言をくらっていたとは思えない変わり身の早さに、これだけは小香も感嘆せずにはいられない。

案の定、劉元起は「おうおう」と相好を崩した。

この伯父は一族の中でも特に劉備を気に入っている。ともすれば秀才の誉れ高い自分の息子よりも高く買っている節もある。

早くに父を亡くした劉備が不憫で、ということもあろうが、やはり劉備自身の天性のタラシ、いや人徳というものだろうか。

「おお、伯父上をこのような戸口でお待たせしては申し訳ない。どうぞ中でおくつろぎください。」

どうぞどうぞ、とすすめられて劉元起は上機嫌で劉備宅の客人となった。

内心あわてたのは小香である。中は劉備の脱ぎ散らかした服やら書物やらでごった返しているのだ。急な客人など想定外だ。

しかしここで動じないのが中国の母、劉備の母。

小香は笑顔を貼り付けながら猛スピードで邪魔なものをわきへどけ、ささやかな酒宴の支度をこなした。

さすがは後世に名高い賢夫人、劉備の母!…かも。


そして劉元起の持ってきた話というのは、劉備の将来にかかわるまさに重大事であった。

「盧先生の塾に、徳然さんと玄徳を入れるんですか?」

盧先生とは、先の九公太守で高名な儒学者の、盧植(ろしょく)のことである。盧植は涿県出身の有名人なので、小香でもその名は知っていた。

その盧植のひらいた私塾に、徳然と劉備を入れようというのである。

「盧先生が、この地で塾をひらいているのですか?」

「さよう。郷里の子弟の教育のためだそうだ。束修(謝礼金)さえ払えば、誰でも入れてくれるそうだよ。」

「まあ!」

盧植の弟子になって孝廉こうれんに挙げてもらえば、官吏になる早道になる。

この時代は郷挙里選きょうきょりせんという制度があり、役人になるには孝廉という有力者の推薦が不可欠であった。

もし盧植の推薦があれは、強力なコネになること間違いなし。うまくすれば、中央での出世の道だって開けるかもしれない。

とにかくコネがものを言う時代であった。地縁、血縁、使えるものは何でも使う。小香の目の色が変わるのも当然である。

「しかし元起伯父さま、徳然兄さまはともかく、何故私まで?」

劉備が伯父の盃に酒を注ぎながら、さりげなく聞いた。

このころの劉備は学問が好きではなかった。正直、有難迷惑である。塾になど行く気はさらさらなかったが、そんなことは言えない。

劉元起は「当たり前ではないか」と言いながら、劉備に向かってびし、と指をさした。

「お前には見所があるからだ!」

劉備は固まった。やばいぞこれは本当に塾送りにされる、と劉備は思った。

「でも、その、束修はいかほどなのでしょうか。それに入塾後の生活費などは」

かなり情けない返答だったが、小香もはっと現実に立ち戻った。

そうだった。稼ぎ手のいない劉家の家計は火の車、恥ずかしい話だが、そんな余分な蓄えなどない。

まあ、どう取り繕ったところで、劉家の台所事情など劉元起には筒抜けなのだが。

「何だ、そんなことか。」

劉元起は、事情は百も承知とばかりに豪快に笑った。

「玄徳の束修もうちで出すから心配ない。もちろん生活費も面倒見るから、安心して学問に励んでこい!」

「えええっ!?」

これには劉備も、小香もびっくり仰天した。

いくら親戚とはいえ、義に篤い土地柄とはいえ、これはさすがに破格の大盤振る舞いである。

なるほど、徳然が一刻も早く劉備に伝えたかったのは、まさにこのことだったのだ。おそらくは、自分の口から。劉備をびっくりさせてともに喜ぼうともくろんでいたのかもしれない。

何故劉元起がそこまでしてくれるのかは分からないが、これは劉備母子には千載一遇のチャンスであった。

断れない。絶対に。

「お、伯父上。私ごときにそこまでのご厚情、感謝の言葉もございません。」

劉備は焦った。恩知らずなことに、劉備はまだ逃げる算段を考えていた。

こんなうまい話、小香もタダと聞いて完全に乗り気になっているから、もう決まったも同然。なんとかせねば。

「し、しかし、母を置いてはゆけません!」

は、私?と小香の目が点になった。この期に及んで何を言い出すのか、この馬鹿息子は。

「父亡き後、私と母は一心同体、車の両輪のごとく、一方が欠けてはどちらも生きてはゆけません。」

劉備は精一杯、残念そうな顔をした。孝行息子作戦である。劉備の見立てでは、伯父はこの手の話が好きなはずである。

さあ断るぞ、と気合を入れた瞬間、

「おお玄徳や、この母のことなど捨ててゆくがよいぞ。」

劉備を上回る芝居を見せた女がいた。小香だ。

「私のせいでお前の将来を閉ざしてしまうのなら、生きる価値もない。母は今すぐ命を絶つから、お前は母の屍を乗り越えて、天下の英雄になっておくれ!」

はあ?天下の英雄?

劉備は聞き違いかと小香を振り向いてぎょっとした。

何と小香は、さっき菜っ葉を切っていた包丁を首筋に当て、劉備をらんらんと光る眼で睨んでいたのである。

小香は小柄な体をぴんと伸ばし、包丁を当てたまますっくと立ち上がった。

「玄徳。お前は中山靖王劉勝の子孫。このような田舎で百姓のまま終わってはなりません!」

劉備も、劉元起もぽかんと口をあけて小香を見た。

危ない。危ないが動く方がよほど危ない気がする。こんな危ない小香は初めて見た。

どこまで本気か分からないが、芝居に神がかっている。さすがは劉備の母。この親にしてこの子あり。

何だこの茶番、と劉備が言いかけた時。

今度は劉元起が、がしっと劉備の腕をとった。

「その通りだ、玄徳!お前は天下に羽ばたける男。小香さんの貴い命、無駄にするでないぞ!」

劉元起まですっかり感化されて、感極まった大声をあげた。これも芝居?いやこっちは素か?

というか、小香が死ぬのが前提になっているが。

しかし劉元起は失言に気付かず、ぶんぶんと劉備の長い腕を振り回した。

「お前は小さい頃、この庭の桑の木を見て、こんな傘のついた車に乗りたいと言っただろう。」

そして唐突に昔話が始まった。

そうか伯父は酔っ払っているのか、と劉備は初めて気がついた。

「傘のついた車に乗れるのは天子様だけ。つまりお前は天子様になりたいと言ったのだ。何という大人物!」

「全然覚えておりません。それ、不敬罪で捕まりますよ。」

「わしは確信した。お前はただ者じゃない。何かあったらわしが全力で援助してやろうと、その時誓ったのだ!」

おおお、と劉元起は前触れもなく号泣を始めた。今度は伯父にしがみつかれる形となった劉備は、ますます身動きが取れなくなった。

小香はまだ包丁を握りしめている。目が血走っているのは、引っ込みがつかなくなった焦りか。

劉備は天に向かってありえない悪態をついた。

――もう誰でもいいからこいつらを何とかしてくれ!

その時、戸口が開いた。

天の助けのごとく、長身の人物が、早足で入ってきた。

「これは、いったいどうしたことです!?」

劉徳然が、目の前の光景に上ずった声を上げた。


束修は乾し肉の束十本セットのこと。贈答や塾の謝礼金に使ったそうです。月謝というより入学金のイメージでしょうか。三国時代には肉ではなくお金になっていたようです。

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