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桃園結義異聞  作者: 胡姫
15/17

盧植(ろしょく)、命数を語る

「…何の冗談だ、これは。」

「冗談なんかじゃありませんよ。一緒に死ぬんです。」

火勢が急に強まった気がした。死地に閉じ込められた恐怖がにわかに迫ってきた。

徳然の瞳の中に、予想された狂気の色はなかった。むしろ今までで一番落ち着いて見えた。

まるで天気の話でもするように、徳然は淡々と死を口にした。

「もっと早くに死ぬべきでした。あなたはとても危険だから。ずっと考えていたんです。もうずっと前から。…こんなことになる前に。」

時折笑顔すら見せて話す徳然は、お茶でも飲みながら世間話をしているようだった。

呼吸すらままならぬ熱風の中、一人涼しげに死を語る徳然は、異界の者のように見えた。いや地獄の番人か。どちらにしても劉備にとっては不吉極まりない、死の使者であった。

「こんなことにって…お前が殺したんだろう!」

「ええそうです。でもあなたのせいだ。あなたが惑わせたりしなければ、私は殺さなくて済んだ。この男だって死なずに済んだ。あと何人、私に殺させる気ですか。」

徳然は指の落ちた右手を眺め、何人だって殺しますが、とつぶやいた。

「きっと私はこれからも同じことをする。あなたのような人はこの世にいてはいけない。」

「俺のせいだって言うのかよ!」

「だからこれは正当防衛です。あなたを殺して私も死にます。」

劉備は背筋にぞっと悪寒が走るのを感じた。徳然は本気だ。恐ろしいほど。そして正気だ。

徳然は今まで一度も、劉備を危険な目に遭わせたことはなかった。常に全身で劉備を守り、慈しみ、愛してくれた。

その徳然が今初めて、劉備に危害を加えようとしている。

「そこをどけ。早く。戸を開けるんだ」

「駄目です。あなたを外になんか出さない。」

劉備はさっきのように丸窓から脱出できないか視線をさまよわせた。しかし窓があったと思われる場所は火元に近く、一面火の海で、とても近づける状態ではなかった。

「お前だって死ぬんだぞ。」

「そのつもりだと言ったでしょう。どれだけ男を惑わせれば気が済むんですか。あなたなんか、」

劉備と徳然の目の前に、メリメリと音を立てて、柱の塊が落ちてきた。煽られた火の粉で肌も髪もちりちりと焼かれた。炎が渦をあちこちで巻き始めた。

「地獄に落ちればいい。」

劉備は声を失った。

これが徳然の本音か。心の臓を冷たい風が通り抜けた。何もかも熱いのに周囲の風だけ熱がない。

今の今まで裏切ろうとしていた相手なのに、徳然にだけは否定されたくなかった。虫のいい話だがそれが劉備の本音だった。

棒のようになってしまった劉備に、徳然がゆっくりと近づいた。

「私も一緒に行きますから。あなたとなら、どこへでも。だって、」

耳もとでささやかれる声。抱きしめる腕。

「地獄なら、誰もあなたを追いかけてこられないでしょう。…私以外は。」

鼓膜を裂く轟音の中、徳然の声だけがなぜかはっきりと聞こえた。

「誰にも渡さない。愛しているから。」


熱い。熱い。喉が焼ける。酸素が足りない。

ここで死ぬのか。こんなところで。こんなかたちで。

劉備の意識はだんだん朦朧とし、思考力が低下していった。

天罰なのかと思った。徳然に殺されるのなら、文句は言えない気がした。

徳然の腕の中で、劉備は気を失った。


だからこれは夢だ。

劉備の前に、見知らぬ壮年の男が立っていた。

儒者の格好をしている。どこかで見たような気もするのだが、思い出せない。


「劉玄徳。そなたの命数はここで尽きる。」

男は言った。その声に聞き覚えがあった。というより毎日学堂で御簾越しに聞いている声だ。ということは。

盧植(ろしょく)…?」

「師を呼び捨てとは許し難い。」

やや甲高く早口で、明瞭な喋り方。間違えようもない。師の盧植だ。

想像していたよりずっと若く見える。というより若いのか年をとっているのかよく分からない。年齢不詳である。御簾の中の師はこんな人物だったのか、と劉備は危機的状況も忘れて師を見つめた。

「星が騒いでおる。」

盧植は半眼になり、何かの気配を追うように精神を集中させていた。

「何事かと思えば、こんな騒ぎを起こしおって。大人しく従兄と安喜の田舎で生を終えるなら、見逃してやらんでもなかったものを。」

盧植はかっと眼を見開いた。その眼光たるや、思わず飛びのくほど鋭かった。

その眼光で、盧植は値踏みするように劉備を見た。というより視た。視る、というのは呪術的な行為でもある。盧植の視線は劉備を飛び越えて異界の何かを視ているようにも見えた。

「英雄の相。」

しばらくして、盧植は断じた。

「しかし時に遇わぬ。惜しい。」

「褒めてるんですか?」

「最悪じゃ。英雄の相、時を得ないばかりかかえって世を乱すとは。」

「どういうことですか。俺が世を乱すって。徳然も似たようなことを言ってたが、まさかそれで推薦状をくれなかったとか。」

「やはり劉徳然では抑え切れなかったか。竜を自分だけのものにするなど土台無理な話じゃ。」

つまり盧植は英雄の相とか何とかすべて知った上で、劉備を意図的に冷遇していたのである。後ろ盾も学力も関係なかった。そして今劉備が死ぬのを見物に来たのだ。何なんだそれは、と劉備はあまりの理不尽に怒りを覚えた。三年間の塾生活を返せ。

盧植はどこ吹く風で、やはりもっと早く視ておくべきだったのう、などと呟きながら長い髭を撫でた。

「命数の尽きる前に来てよかった。そなたが我が塾に現れた時から気にかけておったが、ここまでとは。天もむごいことをなさる。」

盧植と劉備の会話はかみ合っていない。盧植にまるで聞く気がなく、一人で指を折ったり、なるほど、と納得したりしているからである。だんだん劉備はいらいらしてきた。もとより気は短いほうである。

「しかし天命とはいえ、これほどの相。見殺しにするにはあまりにも惜しい。ふむ。」

「だから何なんだよ!」

とうとう劉備はキレた。

「さっきから一人でわけわかんないこと言いやがって。命数だの天だの、あんた占い師か!」

こともあろうに師に向かってのタメ口雑言、徳然が聞いたら目を回すかもしれない。

しかし盧植、やはり並の儒者ではなかった。

「儒者を舐めてもらっては困る。」

盧植、劉備のような十七、八の孺子(じゅし)(青二才)の文句になど全く動じず。涼しい顔で柳に風と受け流しただけでなく、時を得たとばかりに長広舌が始まった。

「儒者は天命を知る者。鬼神を知る者。孔子が怪力乱神を語らずと言うたのは、孔子自身が鬼神に通じた者であったからだ。つまり儒教は鬼神のエキスパートによって生み出された学問、儒者が鬼神に通じておるのは至極当然の」

「ちょ、ちょっと待てよ。講義か?ここは学堂じゃないぞ。」

思うに儒者とは怪力乱神について語りたくて仕方のない人種なのではあるまいか。孔子が語るのを禁じたのはそんな理由かもしれない。劉備が邪推するほど盧植は楽しげであった。

「劉玄徳。そなた、生きたいか?」

「は?」

唐突に始まった究極の問いに劉備は固まった。

「もとよりそなたの命数は尽きる定め。そなたが世に出ては乱世をもたらす。ここで死んでもらうのが天命というもの。じゃが。」

盧植は天を見上げて嘆息した。若干、芝居がかっている気がしないでもない。

「そなたの英雄の相、なんとも惜しい。そなた、生きたいか。」

「生きたいに決まっている!」

劉備は叫んだ。愚問にもほどがある。生きたくない人間など、この世にいるわけがないではないか。

「俺のせいで乱世になろうと知ったことか。俺は生きたい。自分のしたいように生きたい!」

「ではそこの若者の命数を奪うがよい。そなたの従兄にして契兄弟、劉徳然の。」

劉備ははっとした。盧植が長い袖をひるがえすと、徳然が横たわっていた。既に意識はないようだが、白い肌は桃色に染まり、むしろ血色は良いように見えた、一酸化炭素中毒の症状である。今の今まで気づかなかった。

「この者の命数は尽きてはおらぬ。が、不具者として一生を寝たきりで過ごすことになる。同じく中山靖王劉勝の血筋のこの者からなら、あるいは命数を動かすこともできよう。」

盧植はたっぷりと間をとって(楽しんでいるとしか思えない)、劉備にファイナルアンサーを迫った。

「さあ、奪うか。劉玄徳。この者の命を。」




劉備、まだ高校生くらいの年だったんですね。儒者のイメージがおかしいのは酒見賢一先生の「陋巷(ろうこう)に在り」の影響かも。演義には時々妖術チックな話だ出てくるので私も少々。正史派なのに。

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