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桃園結義異聞  作者: 胡姫
13/17

劉備、決心する

早朝、劉備は、まだ夜の明けきらぬうちに家を出た。

市場が開門するのを待って中に入り、劉備は昨日の妓楼へ向かった。

田豫はいなかった。

女たちに聞いても、口止めされているのか口を割らない。劉備は近隣の妓楼を一軒一軒訪ねた。田豫が身を潜めるのは、ここしかないと思った。

何軒回ったのか分からなくなってきたころ、劉備は路地のつきあたりにたたずむ長身の若い女を見つけた。行き過ぎようとして胸騒ぎを覚え、劉備は路地に入った。田豫だった。

「…何だよ。」

田豫は女物の(ひとえ)を引っ掛け、懐手をして、壁にもたれかかっていた。目は死魚に似て光がなく、荒んでいた。近寄ると酒のにおいがした。

「まさか一晩じゅうここに?」

「馬鹿。真冬だぞ。お前が来たって聞いたから、逃げてきたんだよ。」

着のみ着のまま、薄い單一枚を羽織っただけの田豫はとても寒そうに見えた。手近にあった女の衣を引っ被って来ただけのようだが、妙に似合っていた。

「逃げることないだろう。」

「察しろよ。顔を合わせられるわけないだろ。」

劉備は童子が通せんぼをするように立ちふさがった。また逃げられてはかなわない。田豫は諦めたように大きなため息をついた。

「…何しに来たんだよ。」

「昨日の話。遠くへ行かないかって。」

ああ、と田豫は気のない返事をした。昨日のことなのに遠い昔の話のようで現実感がない。

「忘れてくれ。あんなこと言って、お前が俺なんかと来てくれるわけがない。」

「お前を利用しようと思う。」

え?と田豫は聞き返した。劉備の真意が読めなかった。

「俺はずるい悪党だ。今から俺は、俺の目的のためにお前を利用する。一緒に行きたい。」

劉備はまっすぐに田豫を見た。田豫は信じられないものを見るように劉備を見返した。

「本気か?嫌じゃないのか?俺はお前を、」

「死ぬまで言わないつもりだったんだろう?だったら聞かなかったことにする。」

田豫は安堵と落胆の入り混じったような、複雑な顔になった。少しは期待させろよ、と呟く声が聞こえたが劉備は無視した。

「行くのか。どうなんだ。」

「…行くに決まっているだろう。」

田豫は吹っ切れたように顔を上げた。目に光が戻っていた。久しぶりに体に生気が戻ってきたような気がした。連れて行ってもらう立場のくせに、どこまでも劉備は偉そうだった。そんなところが快感だった。快感だと思う自分が不思議だった。

「それでこそ劉玄徳だ。利用されてやるよ。お前にはその権利がある。」


寒さに耐えかねて、二人は妓楼の一室に戻った。

田豫の体はすっかり冷えていた。すぐに火鉢を入れ、熱い湯を運んでもらったが、芯まで冷えた体はなかなかあたたまらない。

劉備は田豫の冷たい体をさすった。痩せた体は成人のものにしては不健康に細かった。二人で旅に出たらもう少し健康管理をさせなければ、と劉備は思った。

「…韓当の占いは、もう一つあったんだ。」

「え?」

唐突に田豫が話し始めたため、劉備は面食らった。

「お前が初めて家に来た日。韓当は俺にも言ったんだ。玄徳と徳然を引き離せ、でないと俺に災いがふりかかると。」

初耳だった。田豫の体をさする手が止まった。田豫はその手を少しためらってから、やわらかく包み込んだ。

「だから同居は、俺自身のためでもあったんだ。」

「監視か。」

「ま、理由はそれだけじゃなかったけど。本当はあの時からずっと…惹かれていたのかもしれない。」

田豫は劉備の手をそっとなでた。ずっと一つ屋根の下にいたのに、こんな風に劉備に触れるのは初めてだった。何故もっと早く触れなかったのだろうと思った。あらためて徳然が憎いと思った。

「占いとは関係なくお前たちを引き離したかった。なのにお前たちは契兄弟になってしまうし…。」

「悪かったな。」

笑うところではなかったが、劉備は思わず笑った。田豫もつられて笑った。田豫の手はやわらかくて心地よかった。ふと契兄弟の相手が田豫だったら、と考えてみた。そうしたら、今のような閉塞感は感じなかったのだろうか。

「でもこれでやっと引き離せる。お前たちは一緒にいたらいけないと、韓当も言っていた。きっとこれが一番いい方法…」

背後で音もなく戸が開くのに、劉備も田豫も気づくのが遅れた。冷たい外気と、それ以上に凍った気配に、二人は同時に振り返った。

徳然が静かに二人を見下ろしていた。


徳然は髪も服装も乱れ、顔色は蒼白になっており、幽鬼のように見えた。市場じゅうを走り回ってきたのだろう。まだ息が上がっていた。

「何をしている。離れなさい。」

徳然はゆっくりと腕を上げ、田豫に向かって指を突きつけた。

「この男がどんな目であなたを見ていたか、知っているんですか。」

「お前…知って…」

「気づいていないとでも思ったんですか。あんなにあからさまな目をして。玄徳のことばかり追っていましたよね。けがらわしい。」

徳然は吐き捨てるように言い放った。田豫の色白の顔がさっと紅く染まった。

「どうしてここが?」

劉備は努めて落ち着いた声を出そうと試みた。驚きは一瞬で、やっぱり、と思う気持ちが強かった。徳然ならここを突きとめるような気がしていた。

「あなたが言ったんでしょう。昨夜妓楼に行ったと。こんな時間だしまさかと思ったが、…」

徳然は不浄なものを見るように田豫を一瞥した。田豫も毛を逆立てた獣のように徳然を睨んだ。田豫は無意識に、劉備の手を強く握りしめた。

「これはどういうことです。どうしてこの男といるのですか。…まさか。」

徳然には、二人が手をつなぎ抱き合っているように見えた。ありえない光景だった。徳然は呻いた。

「昨夜は…この男と過ごしたのですか。」

「はあ?何言って、」

「ああ、そうだよ。」

劉備が否定するより早く田豫が答えた。劉備は仰天して田豫を見た。この状況で、こいつは何を言い出すんだ。とんでもない嘘だが今の徳然は信じるに違いない。劉備は頭を抱えた。

案の定、徳然の表情が凍った。それを見て、田豫は勝ち誇ったように笑った。

「俺は玄徳と契った。お前との関係は解消するそうだ。ざまあみろ!」

「嘘だ。」

言下に否定し、徳然はゆらりと近づいた。

激しい嫉妬と吐き気で倒れそうになっていたが、そんな素振りはかけらも見せなかった。何もなかったことにしなければならなかった。騒いで糾弾すれば必ず劉備は離れて行ってしまう。

徳然は音もなく歩み寄り、田豫の手から劉備を引き離した。

そして…笑った。

「さあ、帰りましょう。盧先生がお待ちです。」

「盧先生?」

意外な人物の名に、劉備は混乱した。田豫の嘘を否定することも忘れて、劉備は徳然を見上げた。

徳然は何事もなかったかのように優しく笑いかけていた。

「あなたも安喜県で仕官できることになりました。推薦状を書いてくださるそうです。早く先生の屋敷へ。」

「待てよ。人の話を聞いてるのか。玄徳は俺と、」

田豫が言いかけるのを劉備は止めた。さっきから徳然は田豫の存在を完全に無視している。視界にも入れていない。無視することに決めたらしい。

これは田豫ではなく自分と徳然の問題だ。

「すまない徳然。一人で帰ってくれ。俺は旅に出る。」

「…は?」

「塾はやめる。盧先生の推薦も要らない。安喜にも…行かない。」

徳然は絶句した。劉備は何を言っているのか。言葉が意味をなさずに頭から滑り落ちていく。ようやく意味をとらえた時、徳然は自分の立っている大地が揺らぐような衝撃を覚えた。

旅?

誰と?

「国譲(田豫の字)と他国を回ることにしたんだ。お前には悪いと思ってる。今までずっと世話になりっぱなしで、感謝してもしきれないほどだ。でも、」

「そんな言葉が聞きたいんじゃない!」

徳然は劉備の言葉をさえぎった。まるで別れの言葉ではないか。

「あなたは…正気ですか?自分が何を言っているのか分かっているんですか?」

「ああ分かってる。お前が分かってくれないことも。…だから。」

劉備は田豫の膝先に置いてあった火鉢を手にした。ずしりと重い火鉢は、炭火が燃えているため火傷しそうに熱かった。

劉備は火鉢を、徳然に向かって投げた。

「強行突破だ!」



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