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桃園結義異聞  作者: 胡姫
12/17

田豫(でんよ)の思い

田豫の家に、来客が増えた。

来客といっても好意的な客ではない。田氏の親類や代理人など、田豫にとって不愉快な話を持ってくる者ばかりである。

深夜までいさかいの声が絶えないこともあり、話し合いは難航しているようだった。

田豫は来客を避け、家を空けることが多くなった。

ここのところ田豫は塾にも来ていない。どこで寝泊まりしているのか、何日も顔を見ないことがある。徳然は歓迎している様子だったが、劉備は気がかりでならなかった。

だから、学堂を出たところで見慣れた人影を認めた時、劉備は書物を投げ捨てて駆け寄った。

「どこに行ってたんだよ!家にも塾にも来ないで。」

「悪い。心配してくれてたのか。」

数日見ない間に、田豫はさらにやつれたようだった。まともに食事を取っていないのか、顔色も悪い。

「時々様子を見に来てたんだが、徳然がいるからなかなか声をかけられなくて。あいつがいない時を待ってたんだ。」

今隣に徳然はいない。先刻、盧植に用事を言いつけられて屋敷の方に行った。でなければ終始劉備から離れないはずである。

「とにかく出よう。お前と話がしたい。」

田豫は劉備の手を取って、足早に学堂を後にした。


田豫はそのまま市場の方へ向かった。

「家には戻らないのか。お前の家なのに。」

「あそこは麻婆の家だ。それに俺はもうじき連れ戻される。」

両側に店の立ち並ぶ中を、田豫はどんどん歩いていく。

市場の喧騒は相変わらずだ。劉備は初めて田豫と会った時のことを思い出した。あの時はまだ何も始まっていなかった。何と無知で、幸せな時間だったのだろう。

店が尽き、派手な外観の建物が立ち並ぶ一角に出た。昼だというのにやけに閑散としている。それなのにどこか退廃的な雰囲気が漂っていた。

「ここ…妓楼じゃないか。」

劉備の問いに答えず、田豫はその中の一軒に当然のように入って行った。もうすっかり馴染みなのか、中にいた女たちがいっせいに田豫を振り返って、艶めかしい笑みを投げた。田豫は女性と見紛うほど綺麗な顔をしているから、女たちに人気があるようだった。

「おい!お前、家にも帰らず妓楼通いをしていたのか。いくら何でも。」

「黙って来い。聞かれたくない話をするには、ここが一番いいんだ。」

田豫は薄暗い階段を上がり、奥まった一室の戸を開けた。艶めかしい調度だが、中には誰もおらず、田豫の私物らしき日用品が雑然と置かれていた。

不在の間、ここに滞在していたのか。

落ち着かない気分で、劉備は座に腰を下ろした。

「妓楼は初めてか?」

田豫が笑いを含んだ声で訊ねた。(しゃく)だったが、頷くしかなかった。

「だよな。あの従兄がいればな。…契ったんだろ?」

劉備は突然の直球に、すぐには答えられなかった。やはりばれていたのだ。徳然の態度の豹変ぶりを見れば当然か。

「…へえ、やっぱり。」

田豫は自分で聞いておきながら、あらためて衝撃を受けたような顔をした。しばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。

「俺が留守の間、ずっと気になっていた。親父の喪中でなければ飛んで帰りたかった。」

静かに戸が開いて、若い女が茶を運んできた。よく訓練されているらしく、聞き耳を立てることもなく艶然と微笑んで出て行った。

気まずい沈黙に耐えかね、劉備は茶を口にした。異国の茶なのか、独特の香りがした。

「…本当に漁陽に帰るのか。」

田豫は首を振った。

「帰らない。漁陽に俺の居場所はない。それに…帰ったら、名を奪われる。」

「名を?」

予想外の答えに劉備は驚いた。田豫は苦く笑った。

「本家に子供が生まれて、と名づけたそうだ。俺の存在は知らなかったらしい。ずっと遊学していたし、いないものとみなされていたから。」

劉備は言葉が出なかった。肉親の中にいながら、いないものとみなされる子供。田豫の置かれていた状況がようやく腑に落ちた。その苛酷さに、胸が詰まった。

「田家に田豫は二人もいらない。俺は適当な名をあてがわれて別人になる。盧植門下の田豫国譲という人間は、この世から抹殺されるんだ。」

名を奪うとはその人を否定することだ。その名で生きてきた時間を、人格を、丸ごと抹消することだ。

「そんな馬鹿なことがあるか!」

「うちではあるんだよ。みんな目の色を変えて体面とやらを守っているんだ。馬鹿馬鹿しいよな。」

田豫は大声をあげて笑った。しかしすぐに笑うのをやめて、じっと劉備の顔を見た。

「だから遠くへ行こうと思う。…玄徳、一緒に行かないか。」

劉備は田豫の目を見返した。冗談を言っているのでも、やけを起こしているのでもなさそうだった。田豫は本気で逃避行を企てている。

「契兄弟なんかやめて、俺と一旗揚げようぜ。」

「何故俺を誘う?」

「お前も同じだと思ったからだ。本当に徳然が好きで契兄弟になったのか?違うんだろう?」

さすがに田豫は鋭い。劉備と徳然では好きの意味が違う。

しかし劉備は真実を言うつもりはなかった。言ったところで何が変わるわけでもなかった。運命なら受け入れて納得するしかない。劉備は平静を装い、茶をすすった。

「自分で決めたことだ。」

「俺にだけは隠しごとをするなよ。ここなら誰もいない。正直に言えよ。」

「別に隠してない。見たままだ。」

「徳然が好きだからじゃないんだろう?違うって言えよ!」

田豫は声を荒らげた。今までで一番悲痛な声だった。どうしてこだわるのだろうと劉備は訝った。契兄弟が婚姻と同義なら、愛のない婚姻などいくらでもある。劉備の場合、愛がないわけではなかった。ただ意味が違っただけだ。

劉備がいつまでたっても口をひらかないので、重い沈黙が落ちた。

「…あれから眠れないんだよ。お前たちのことが、頭にちらついて。」

田豫はほとんど聞こえないほど小さな声でつぶやいた。

「お前たちのことは、帰った日にすぐに分かった。」

「どうして分かったんだ。」

「分かるさ、馬鹿。どれだけ見ていたと思っているんだ。」

田豫は劉備から視線をそらし、床の一点を見詰めた。やはりやつれ方がひどい。細い背中には骨が浮き出ていて痛々しかった。

「ああ馬鹿は俺だよ。こうなることは分かっていたのに、家を留守にした。でもどうしようもないだろ、親父が死んだのに!」

劉備は頭の中がくらくらするのを感じた。眩暈がしそうだった。

「家を出たのは、親戚が来るせいじゃない。お前たちを見ていられなかったからだ。あれで隠したつもりかよ。全く、おかしくなりそうだったぜ。」

いや、もうおかしくなっているのかも、と田豫は口もとに乾いた笑いを浮かべた。

「妓楼で女を買っても、お前のことばかり思い浮かべてしまう。どんなふうに抱かれているのか、とか…。くそっ、何でこんなこと言わないとならないんだよ。こんなこと言わせるなよ。」

田豫は目の前の茶器をひっくり返した。茶器が転がり、異国の香りが部屋中に立ちのぼった。

「一生黙っているつもりだったのに。お前には知られたくなかった!」

「なら言うなよ。死ぬまで隠し通せ。」

劉備は席を立った。こんな田豫は見ていられない。これ以上聞くと、自分までおかしくなりそうだった。

逃げだと思ったが、今は頭を冷やす時間が必要だった。こんな時に考えてもろくな結果は出ない。

「また来る。…早く家に戻って来い。」

田豫の声が追ってきたが、構わず戸を閉めた。外に出た瞬間、自分がひどく汗をかいていたことに劉備は気がついた。

最初の衝撃はすぐにさめた。思ったほどショックは受けていなかった。心のどこかで、気づいていたのかもしれない。

これはチャンスだとささやく声がした。押し殺していた夢を呼び覚ます、悪魔のささやきに似ていた。

しかし劉備は首を振った。この時の劉備はまだ若く、世間ずれしていなかった。契兄弟の責任を果たすべきだと思っていた。徳然を置いては行けない。義理人情の篤さが、誘惑を上回った。

もう酒だけでは気分は晴れなかった。その夜、劉備は初めて女を買った。


家に帰り着いたころには、深夜に近い時刻になっていた。

「どこへ行っていたんですか!」

徳然が飛んできた。過保護はさらにひどくなったようだ。説明するのも億劫になり、劉備は短く答えた。

「妓楼。」

徳然が絶句するのを無視して劉備は自室に戻ろうとした。しかし腕をつかまれて引き戻された。劉備の肌から脂粉の薫りがこぼれて、徳然を逆上させた。

「あなたという人は…何てことを。許しませんよ!」

「許さない?何をだよ。これくらい普通だろ。」

不意に押し殺していた鬱屈が爆発した。劉備は徳然の手を、力を込めて振り払った。

「俺は傀儡(人形)じゃないぞ!」

一瞬徳然の顔がゆがんだすきに、劉備は部屋に駆けこんで戸を閉めた。どんどん、と戸をたたく音が聞こえたが開けなかった。

田豫の誘いがぐるぐると頭の中を駆け巡っていた。初めて女を抱いた高揚感も、葛藤に拍車をかけた。

恩義も契兄弟もどうでもいい気がしてきた。何をこだわっていたのだろう。自分の人生、好きに生きて何が悪い。徳然は今も好きだし尊敬しているが、彼の求めるものは自分とは違う。決定的に違う。

田豫に会わなくては、と劉備は決心した。


自分でも書いててびっくりな展開なのですが…幽州人は激烈な性格の人が多いと聞いたもので。始皇帝暗殺の荊軻(けいか)とか(荊軻の生国は衛ですが)。荊軻と高漸離もちょっと書いてみたいかも。

この田豫は正史の田豫とは別人です。劉備、公孫瓉、袁紹、曹操に仕える正史の田豫は田氏本家に生まれた二人目の田豫ということで…田豫の名誉のために…。

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