契兄弟
その年の秋、田豫の父が死んだ。
田豫の父はかなりの老齢で、大往生であった。
田氏の葬儀は盛大に行われることとなり、田豫も一時的に漁陽の生家に戻った。
「もう戻る気はなかったのに。親戚連中になんて会いたくない。」
渋る田豫を、麻婆が引っ立てるようにして連れて行った。
服喪期間は三十六日間である。その間、劉備は徳然と二人きりになった。
田豫も麻婆もいない家はがらんとして、いつもの見慣れた家とは違う気がした。
ふと劉備は背後に人の気配を感じた。
「いい機会だから、今後のことを考えましょう。」
徳然がやわらかく微笑んで立っていた。遊学期間はあと半年に迫っていた。そろそろ本気で身の振り方を考えなくてはならない。二人は向かい合って座った。
「徳然は、仕官が決まったんだよな。」
「ええ。来春、安喜県の県尉として赴任します。」
優秀な徳然は、内弟子の話は断ったものの、盧植の屋敷に出入りすることを許され教えを受けていた。盧植に認められて推薦状をもらい、仕官が決まったのだ。
徳然の口添えで、劉備も盧植の教える学堂に入ったが、以前のようには学問に身が入らなかった。
「俺は駄目だな。せっかくお前の親父さんに援助してもらったのに。このまま村に帰るわけにはいかねえよ。」
劉備は程普や韓当みたいに放浪してみたいと考えていた。諸国をめぐって、見聞を広げれば、新しい道もひらけるかもしれない。
しかし放浪には資金がいる。これが一番の難問だった。最近では学問そっちのけで、手っ取り早く稼げる方法ばかり考えている劉備である。例えば最近耳目を集めている太平道とかいう集団、祈祷とまじないで病を治すらしい。これをパクって紙切れを護符として高く売りつけるとか…。
相変わらずしょうもないことを企んでいる劉備の顔を、徳然が真剣な顔で見つめていた。
「まさか…どこかへ行くのですか。」
「いや、まだ、」
劉備は徳然の勘のよさに驚いた。この計画はまだ形にもなっていない。
「…一緒に来てください。」
徳然の口調が変わった。劉備が見上げると、熱のこもった瞳にぶつかった。
「私の気持ちは知っているはずだ。本当は、あなたの学業も仕官もどうでもいいんです。むしろ邪魔だ。」
徳然は両手で劉備の頬を包み込んだ。劉備はびくりと肩を震わせた。ひんやりとした指が、唇をなぞった。
今度こそ、決定的な状況になりつつあるのを、劉備は感じた。
「私が嫌ですか。」
「そうじゃなくて…ほら、俺も母がいるから仕官しないと。」
劉備はとっさに小香を言い訳にして取り繕った。こんなところが後世の孝行息子イメージにつながっているのかもしれない。小香もいい迷惑である。
「小香おばさまは私が面倒をみます。当然でしょう。だって私たちは、」
家族だから、と徳然は意味ありげな笑顔を見せた。家族、というのが、従兄としての意味でないことは明らかだった。そう来たか、と劉備は返答に詰まった。
「契兄弟になるのは怖いですか。」
劉備の心臓が跳ねた。脅えを見透かしたように、徳然が笑った。
「怖いことなんか、ありませんよ。」
いつもの優しい笑みではなかった。目が笑っていない。獲物を狙う獣の色がそこにはあった。
無意識に後ずさろうとして、劉備は強く袖を引かれた。振り払おうとした手を徳然がつかんだ。
劉備はあおむけに倒された。
そのまま徳然がのしかかってくる。しまった、と思う間もなく長綬が解かれ、上衣がはだけられた。大きな手に肌をまさぐられた時、何とも言えない違和感が劉備を襲った。
「やめろ!」
初めて口にした拒絶の言葉だった。ようやく分かった。男となんて、自分には無理だ。
徳然は熱にうるんだ瞳で劉備の目をのぞき込んだ。そして…笑った。
「…悪い子だ。」
言葉を封じるように、唇が塞がれた。舌が乱暴に差しこまれ、口内を蹂躙した。違う、と叫んでももう止めてはくれなかった。
下裳が引き剥がされるように脱がされ、足をひらかされた。劉備の声は声にならずに口内に消えた。
寝台に横たわる自分の体が、自分のものではないように痛んだ。我が身に起こったことが、劉備にはまだ信じられなかった。何かとんでもない悪夢の中の出来事のように思えた。
徳然が怖かった。あれほど怖いと思ったことはなかった。劉備の抵抗などやすやすと抑え込み、拒絶も哀願も一切聞かなかった。今までの優しい従兄とはまるで別人だった。
徳然は劉備の手をしっかりと握ったまま眠っていた。逃がすまいとするように、その手ははずそうとしてもはずれなかった。
「…これで契兄弟ですね。」
はっと気づくと、徳然の瞳が劉備を見ていた。今の動きで起こしてしまったのか、最初から寝てはいなかったのか。
「ひどくしてしまってすみません。あなたと早く契りを結びたくて。…あなたが、迷っているように見えたから。」
でもこれでもう安心ですね、と徳然は極上の笑みを浮かべた。
いつもの優しい従兄の笑顔だった。
見慣れたその笑顔を見たとき、劉備の中で、形容できない感情があふれてきた。
「ふざけるなよ!何で、何でこんな、」
「あなたこそいい加減諦めたらどうです。こうなる運命だったと。」
徳然は劉備の抗議をぴしゃりと遮った。
「どこにも行かないで。ずっとそばに…死ぬまで。」
どこまでも優しく、徳然はささやいた。そうすれば、劉備が拒絶できないことを知っているのだ。
子供の時からそうだった。父のいない劉備は、年長者からの優しさに弱かった。
劉備は急に全身の力が抜けたような気がした。
逃れられない、と劉備は悟った。
三十六日間の服喪を終え、田豫が戻ってきた。
季節はもうすっかり冬である。
田豫はひどく沈んでいるように見えた。父を喪ったからかと思ったが、そうではなく、憂いの原因は別のところにあった。
「参ったよ。塾をやめないとならなくなった。」
「え!?」
劉備は田豫の面やつれした顔をまじまじと見た。服喪の間に、田豫はすっかり生気を失っていた。頬の肉が落ち、白い顔は更に青白くなり、生家にいた間の心労を物語っていた。
「まだ学業の途中ではないですか。親戚の方に何か言われたのですか。」
徳然が心配そうに聞いた。以前のようなとげとげしさが全くない。おや、と田豫は思ったが、その違和感は後回しにした。
「親父が死んで代替わりしただろ。一番上の兄夫婦が家を継いだんだが、こいつが相当なけちで。」
正妻の子である長兄は、田豫とは三十以上年が離れている。年若い妾の子など一族の数にも入れていない。田豫の遊学費用を惜しんで、打ち切ることに決めたらしい。
「そんな急に。お前どうするんだよ。」
「さあな。家に戻れと言われたけど、どうせ給金なしでこき使うつもりだろうしな。」
「名士の家というのも大変ですね。同情します。」
徳然の言葉に、田豫の眉がぴくりと震えた。
「…何なんだよさっきから。心にもないこと言って。急にいいやつぶるなよ。」
徳然はゆったりと微笑んだ。余裕の笑みというやつだ。
「心外ですね。あなたにはいつも感謝しているのですよ。」
田豫は気味悪そうに徳然を眺めた。
「…なあ玄徳、こいつ何かあったのか。」
「何でもねえよ。」
劉備は席を立った。いずれ田豫にはばれると分かっていたが、今は話したくなかった。
背中に田豫の視線を強く感じたが、振り返らなかった。
劉備は中庭に出た。
あれから徳然は、何度となく求めてきた。
最初の時よりはずっと優しくされるようになったが、体の方はいまだ慣れることはない。
田豫が戻ればその機会もなくなるかと思っていたが、これは想定外の事態である。
こうなる前に断るべきだったのか。否、一緒に塾に来たこと自体が、そもそもの間違いなのか。
それでも幸せそうな徳然の顔を見ると、どうしても突き放せなかった。幼いころからの刷り込みなのか、劉備は徳然の優しさに弱かった。しかしそれは愛とは違う。
昔は気づかなかったが、どれほど援助してもらっていたのかも今では分かる。劉備は人一倍恩義を気にする性格だった。借りた恩は死んでも返す。体で返せというならそうするまでだ。
田豫が去れば、この家から出なければならなくなる。
それは劉備の遊学生活の終わりをも意味していた。契兄弟になった今、徳然は劉備を赴任先に連れて行くだろう。諸国をめぐる夢を、徳然が許すとはとても思えなかった。
劉備は満天の星空を見上げた。幽州の冬は厳しい。すぐに指先がかじかみ、感覚がしびれてきた。
「こんなところで、くすぶってたまるかよ。」
何に対するものか分からないまま、怒りに似た感情だけが劉備の胸の内を荒れ狂っていた。
やってもうた。劉備が龍陽という話は聞かないので、ノンケと仮定するとこういう流れに…。罪悪感。
歴史上の人物は書きにくい。