変化
入塾して二年が過ぎた。
劉元起からの援助は三年と決められていた。遊学生活もあと一年である。
この年、程普と韓当が幽州を去った。
きっかけは南を放浪していた韓当が江東で会った、孫堅という男であった。
孫堅、のちの三国のひとつである呉の始祖、武烈皇帝である。
この男、もとは漁師というが実際は海賊で、174年に会稽で起きた許昌の乱の鎮圧で頭角を現した。その功で下邳県の丞(副知事)をしていたが、よく民衆に慕われ、屋敷には孫堅を慕う若者が数百人も出入りしていた。韓当もその人柄にひかれ、逗留するうちにすっかり心酔した。
「とにかく会ってみろ。絶対惚れるから。」
韓当から何度も手紙で誘われて程普も江東に赴き、そのまま二人とも帰らなくなった。
のちに韓当と程普は、呉の宿将として孫堅、孫策、孫権の三代に仕えることになる。
「家もここも、何だか寂しくなったよな。」
田豫が教室を見回して言った。
二年の間に、門生の顔ぶれもずいぶん変わっていた。盧植本人の教える学堂に入る者、推薦状をもらい仕官していく者、新たに入ってくる者。
盧植の門生は名門の子息が多かった。仕官のエリートコースに乗る学友たちは、例外なく強力な後ろ盾を持っていた。二年の間に、劉備は自分と学友たちの差をいやというほど見せつけられた。
劉備はまだ門生のまま、盧植に対面すらしていない。
「後ろ盾のあるやつは、みんな仕官していくしな。」
「あなたは田氏の財力というバックアップがあるでしょう。何故さっさと仕官しないんですか。」
徳然が田豫に棘のある視線を向けた。
徳然と田豫の仲は最悪であった。最近ではもう、徳然は田豫に対する敵意を隠そうともしなかった。劉備に対する独占欲もあからさまに示すようになった。遊学の期限が迫っていることが、徳然から余裕を奪っていた。
「そう言う徳然だって、塾頭の話をずっと断っているよなあ。どういうわけだよ。」
田豫も冷たい目を徳然に向けた。田豫もまた徳然には怒り心頭なのだ。劉備といると何かと邪魔してくる上、敵意をむき出しにしてくる。何より劉備に対する執着が半端じゃない。劉備の従兄でなかったら即刻家から追い出してやるところだ。
「さっさと塾頭になって盧先生の直弟子になれよ。お前は頭も顔もいいんだから、すぐ仕官できるさ。」
「冗談じゃない。そんなに私を追い出したいんですか。」
塾頭になったら盧植の屋敷に住みこみになる。薪水の労を取る、といって、師の身の回りの雑事を行いながら学問をするのだ。内弟子のようなものである。
「いい加減にしろよ!」
劉備は険悪な二人を止めに入った。もう慣れたが、やはり気分のいいものではない。二人がなかなか仕官しないのも、自分に遠慮しているようで嫌だった。
公孫瓉が教室に入ってきたため、諍いは立ち消えとなった。
劉備は公孫瓉の顔を眺めた。公孫瓉にも、近いうちに帰郷して仕官するらしいとの噂がある。公孫瓉は、性格はともかく容姿は見栄えがするし、遼西太守の後ろ盾がある。きっとエリートコースが用意されているのだろう。
劉備は何とも言えない閉塞感を感じた。自分だけが取り残されていくような気がした。
劉備はこっそり酒屋に通うようになった。家でも塾でも離れようとしない徳然を何とか振り切り、一人で酒を飲むことが増えた。
悩みの種はやはり徳然である。
徳然のことは好きだし、尊敬している。恩義もある。
しかし徳然の思いの強さは、劉備には重かった。二人きりにならないよう気をつけてはいるが、それでも周りに人がいないと体に触れてくる。好きだと何度もささやかれ、唇を奪われることも、それ以上のこともあった。
自分が徳然をどう思っているのか、劉備には分からなかった。拒めないのは恩義があるからなのか。それとも自分の中にも徳然と同じ気持ちがあるのか。
徳然は答えを求めたことはない。しかし今以上の関係を望んでいることは明らかだった。
最近はしきりに、田豫の家を出て二人で住もうと勧めてくる。
「酒でも飲まなきゃ、やってられないよなあ。」
劉備は甕から酒を注いだ。いくら飲んでも酔えなかった。
「何だ、事酒なんか飲んでるのか。」
ふと盃を持つ手元が暗くなった。見上げると、見慣れた姿儀の良い男が、立ちふさがるようにして劉備を覗き込んでいた。
「公孫瓉…伯珪(公孫瓉の字)?え?」
劉備は突然現れた公孫瓉をまじまじと見た。公孫瓉はいつも高価な服を着て気取っていたから、こんな場末の酒屋に現れるとは意外であった。
「事酒なんかやめて清酒にしろ。仕方がないから奢ってやる。」
「は?俺は別にあんたと飲むつもりは、」
「遠慮するな。黙って奢られろ。」
公孫瓉は勝手に注文して、劉備の盃に清酒を満たした。目上の者に注がれた酒を断るのは、甚だ非礼である。劉備はやけになって盃をあおった。
「お前ともおかしな縁だな。殺しかけた相手と酒を飲む日が来るとは。」
「全くだ。あんたは悪党だが俺は正義の味方だからな。」
公孫瓉は声をあげて笑った。敬語すら使わないのに、劉備が言うと腹が立たない。馬が合うと言うのか、劉備と話していると退屈しない。
「お前は面白い。あの時殺さないでよかった。」
「何だよ今更。そんなこと言いに来たのか?」
「私ももうすぐここを去る。一言ぐらい謝っておいてやってもいいと思ってな。」
珍しく公孫瓉の口から謝罪らしき言葉が出たので、劉備はびっくりして酒を吹きそうになった。
「ついでに忠告してやる。お前みたいに何の後ろ盾もないやつは、この先いくら励んでも先はないぞ。」
劉備ははっとして公孫瓉を見た。公孫瓉は、いつものように見下した顔はしていなかった。真剣な顔をしていた。
もう行く、と腰を上げかけて、公孫瓉はふと思いついたように訊ねた。
「従兄がずいぶんべったりのようだが、契兄弟なのか?」
契兄弟とは男性カップルのことである。違う、と劉備は答えたが、公孫瓉は半信半疑のようだった。
「まあどっちでもいいが。違うなら、早く離れた方が身のためだぞ。あの従兄は思い込みが激しそうだ。」
言うだけ言うと、公孫瓉はあっけなく行ってしまった。
劉備は考え込んだ。公孫瓉の言葉はどれも正鵠を得ていた。腹立たしいほどに。
先がないこと。徳然のこと。考えても答えの出ないことばかりだ。
唐突に、程普と韓当の顔が浮かんだ。
そうだ、旅に出よう。天啓のように閃いた。
ここではないどこかへ、誰も知らない土地で、自分だけの力で。
それは今までで一番、自分らしい生き方のように思えた。
劉備の盟友なので好意的なイメージのある公孫瓉。イケメンだったと「魏書」にあります。実は残忍で知者を冷遇する人だったとか。
この時代の酒はアルコール度数が低い順に事酒、昔酒、清酒があって、清酒でも5%くらいだったそうです。




