四話 異世界求職者-4
一キロくらい泳いで光に接近する。
近づくにつれて光の波動は強くなった。正体不明の物体に惹かれてここまで泳いできたわけだが、急に頭が冷静になってきた。
フェンは水をたらふく飲んで満足したのか日向ぼっこをしている。仰向けになって姿はまさに犬だ。後で、無防備な腹をワシャワシャしてやろう。
キョロキョロと辺りを見渡す。目視できる範囲に動く物体はない。では、始めよう。ごつごつした石の台座の上に鎮座しているのは、球形の宝石。外見は占いとかで使う水晶に似ているけど、中で半透明な霧状なものが渦巻いている。
光り輝く玉石。どう見たって祭られている代物なんだろう。そんなものに不用意に触れたら天罰とかがあるかもしれない。それでも触れたい。慎重に台座に近づく。もう少しで手が届く。その瞬間、ヒュンと風切音が聞こえた。
台座に深々と矢が刺さっている。さっきまではなかった代物だ。悪い予感がする。咄嗟に後ろを振り向くと無数の矢が弧を描いてこちらに向かっている。
「絶対絶命か」
大きく息を吸い込んで潜水する。水中までは届くはずがない。そんなに深く潜らなくて大丈夫だろう。
『嘘だろう』
大半の矢は水面にぶっかった時点で威力が削がれ殺傷力を失った。しかし、何本かは衰えることなく俺目掛けてやってくる。
回避行動をとろうにも水の中では自由に動けない。後は運にまかせるしかない。
十本中三本が命中。その内、突き刺さったたのが一本。致命傷はなし。上出来じゃないか。右の肩口に突き刺さった矢に手をかける。
無理やり引き抜いたら、血が噴き出しそうだが、このままでは満足に泳げない。こう言うのは思い切りが大事だ。
『しくった』
水中に血の花が咲いた。失念していた。ここだけ赤色に染まっていたら居場所がばれてしまう。そろそろ苦しくなってきたし、でも、浮上した瞬間、ジ・エンドってパターンもありえるし。
こうなればフェンリルが異変に気付いて助けにきてくれるのを待つしかないか。籠城するにも息づきはしなけらば始まらないが……。
『うん? 何だ』
敵は次の一手にでたようだ。これまでの穏やかだった水中に水流が生まれた。どうやら、あの玉石を中心に渦を巻き始めたようだ。まだ、抗えるレベルだがこれ以上強くなったらヤバい。
洗濯機の中に入ったらこんな感じなんだろうか。グルグルグルグルグールグル。染みついた負け犬根性が洗濯されるなら喜こばしいことだけど、その代償が死ではさすがに納得できない。
渦の中心ーー件の光源の引力に抗って懸命に水を掻く。少しづつだけど前進する。おっかなびっくり息継ぎをする。しばらくして、体力が尽きる。お得意のあきらめモードに突入。為すすべもなく中心に引き寄せられる。寸前の所で思い直してまた水を掻く。
そのサイクルの繰り返し。記念すべき二十一回目、さすがに体力は底をつきかけている。やれてあと二回。ふと、空(正確には水面)を見上げる。勿論、そんな余裕は一ミリもないのだが……。
無視できない程の違和感の正体は、水位だ。最初に比べるとあからさまに水深は浅くなっている。今の水深は二メートル程度。もう少し踏ん張れば足がつくじゃないか。少し希望が見えてきた。
そんな矢先、目下の水底に矢が突き刺さった。だめだ相当消耗しているらしい。今の今まで全く気付かなかった。先程の一射は偶然あたらなかっただけだ。感知ができていない以上、回避行動を取りようがない。
水が曲がりなりにも俺の姿を隠し、防御として機能しているため相手方の攻撃力は半減しているが、その恩恵がなくなった瞬間、無数の矢が俺の体に突き刺さる可能性は高い。
こういう状況を何て言うだっけな。四面楚歌、でも、今の状態だと二面楚歌か。前門の虎、後門の狼。俺はイヌ派だから迷わず狼に突進するけど、それで狼を手懐けて虎を狩る。……ちょっと、待て。これは確か俺の黒歴史の一頁に刻まれた問答ではなかった。まだ就職活動を始めて間もない頃、筆記試験で故事に関する設問があった。その後に行われた一次面接で、面接官に聞かれた。
『前門の虎、後門の狼のような状態に当社が陥った場合に、神代さんはどう対処しますか?』
『狼を手懐かせ、虎を狩ります』
『具体的にはどのような方法で行いますか?』
『簡単ですよ。己の力を信じて全力で対処するだけです』
『一人で全てを解決するということですか?』
『後方支援があるのであれば勝率が上りますが、下手をすれば仲間を失う可能性があると考えます』
『つまり助力は必要ないと?』
『狼や虎を一人で倒せないようでは、職務は全うできません』
面接官が眉間に皺を寄せた。
後に、就職活動対策本で前虎後狼は、一難去ってまた一難という意味の故事だと知った。ベッドの上で赤面して頭を抱えたことを鮮明に覚えている。
どうして、あの時の俺はガチで狼や虎と戦うこと想定していたのだろう。中二病に蝕まれた求職者。あああっ、俺って本当にイタイ奴だな……。
それにしてもそん勘違いをしていたなんて、誰かに吹き込まれたとしか考えられない。
知り合いでそんなことをするのはドSな姉ちゃんくらいだろう。うん、俺の姉はドSだったんだっけ?
長いウェーブのかかった金髪が風で靡いている。緑色の瞳が俺を見つめている。その視線は冷たくて幼い俺は恐怖で地面にへたり込んで、ブルブルと震えている。
そんな光景が脳裏に浮かんだ。俺の姉ちゃんて外人さんだったっけ、それにすげぇ睨まれていたし、もしかして、家庭内暴力? だから記憶がないのかな。
きっとこの世界に俺を導いた神様が不要な記憶を抜き取った、そう考えれば辻褄が合う。でも、不思議なことに姉ちゃんを嫌悪する感情は一切ないんだよな。
数本の矢が水底に突き刺さった。走馬燈チックな現実逃避はこれくらいにして。そろそろ選択しなければ事態は好転しない。ここはやはり狼を選択するべきだろう。つまりは、後門に下る。
今を浴槽の栓が抜かれた状態だと仮定する。水が流れ落ちる先はわからないが、中心に到達=死にはならないかもしれない。あとは、でたとこ勝負だけど、射撃の的になるよりはましだろう