水の大神と神代家長女 その四
「回避を続ければ、俺っちがあきらめると思ってはいないのだろう。次の一手は何だ?」
本物の子供のように瞳を輝かせている。どうやら完全に舐められているようだ。まあ、圧倒的な力技で瞬殺されるよりは何倍もましだろう。なら、最大の一手を盛大にぶちこんでやるわ。
網目を目一杯広げる。この状態の私にダメージを与えられた人物はいない。上位の害魔の攻撃ですら私には届かなかった。
あとは平常心を保つだけ、少しでも心を乱せば絶対回避は破綻してしまう。そっと敵に歩みよる。
メルクリウスは怪訝そうな表情でこちらの様子を窺っている。臆さず神の間合いに身を滑り込ませる。そして、両手をメルクリウスの胸部に突き入れる。
「あまりがっかりさせないでくれ」
両手を掴まれた。予想外なことで、思わず術が解けてしまう。
「俺っちには心臓もなければ、アポストロス……害魔のような死核も存在しない。いくら内部を直接いじくりまわされても痛くもかゆくもない。まさかこれで終わりではないよな? 神に一矢報いようというんだ命くらい平然と使い潰せ」
メルクリウスが冷ややかな視線を向けてくる。息がかかるほど顔が近い。神の瞳に写った私は怯えた表情をしている。どうして? 命なんて惜しくはない。とうの昔に覚悟はできているはずなのに……。
迷うな、これだけ密着していれば#あれ__・__#が使えるはずだ。ほら、早く集中して、網目を完全に解くのよ。自分という存在を無に帰す。そして、この神を巻き込んで世界から消失する。そうすれば栄太と凛が……。
「……死にたくない」
無意識に漏れ出た声はひどく震えている。
どうして? どうして?
栄太や凛と一緒に生きていたい。異界守も神代家も関係なく、普通の家族みたいに暮らしたい。栄太や凛が家を出ても、私があの子たちの帰る場所でありたい。粉々に破砕して、心深く沈めていた感情が沸々と浮かび上がってくる。
「もしかして気づいていないのか? お前が境界番に差し出したのは『覚悟』だ」
「覚悟?」
「境界番は容赦なくブツを取り立てる。転生者は記憶以外の全てを奪われる。お前の失った覚悟はそれと同等程度には価値があるということだ」
そんなの何年も自問自答して、汚れて憎まれて自分は二人といるべきではないて無理自分を納得させてきたんだから当然だ。その覚悟を失ってしまった私は醜く生にしがみつくだけの愚者だ。
「もう、戦えないだろう? 許しを乞え。さすれば俺っちの寵愛をくれてやろう」
稼働し始めた生存本能が私を頷かせようと暗躍する。
『足りない覚悟は度胸で補えだろう、姉ちゃん』
不意に栄太の声が聞こえたような気がした。それは幼い栄太に私が伝えた言葉だ。まだ凛が生まれる前、一時だけ栄太にせがまれて稽古をつけていたことがある。才能だけで、技量が伴わない栄太はすぐに泣きべそをかいて私を困らせた。
足に力を込めて、後ろ向きに跳躍する。
「そうよね、栄太。私はアンタのお姉ちゃんだもんね。度胸一つで神に挑んでやるわよ」
境界番も本当に見る目がないわね。私の一番大切なものは今でもちゃんと残っている。
この想いが一欠けらでもあれば神とだって戦える。
「この状況で再戦を望むかよ」
「目付きの悪いお子様には、特別にロザリーお姉さんの本気を見せてあげるわ」
「はっ、そりゃ楽しみだ」
メルクリウスの背後で水流が迸る。四方八方の支柱の隙間から水が流れ込んでくる。このペースだと数分で神殿は水没するだろう。
「さあっ、俺っちの愛で溺れろ」
メルクリウスが高らかに宣言した。