水の大神と神代家長女 その一
メルクリウス大神殿
周辺の砂漠帯とはあからさまに様子が異なる。水辺では、人魚や水妖が語らい。水馬が泳いでいる。水龍の巨体が水面にぶつかり盛大に水飛沫をまき散らす。青々と生い茂った木々には水々しい果実がなっている。楽園、そう呼称できる光景が広がり矮小な人間を惹きつけて止まない。砂漠で水分を奪われ過ぎた旅人ならば迷いもなく足を踏み入れてしまうことだろう。
誰もそこから戻ってこれないと近隣の村人は証言する。彼の地は決して触れてはいけない神域。命は行きの通行料。帰り道は存在しない一方道。
神域の最奥部には水星を名に冠する大神が鎮座しているのだと言う。
「マーメイド、ウンディーネ、ケルピー、アクアドラゴン……あとは河童でもでてくれば完璧ね」
ウェーブのかかった長い金髪、緑眼、白い肌、薔薇のように赤い唇。
白いワンピースに紺色ジャケットを羽織っている彼女は平然と人外の前をを横切って行く。
彼女ーー神代・M・ロザリーが目指すのは最奥部、水の大神メルクリウスとの邂逅を目標にしている。
あの悪趣味なパルテノン神殿モドキまでの距離はどれくらいだろうか。
目測はあてにならないだろう。ここは異界しかもその裏側、神の領域だ。情報が圧倒的に不足している。
他の異界守の報告書や異界学者の研究論文には一通り目をとおした。上層部はもちろん暗部にも手をまわして情報を収集してきた。
「結局は、机上の空論か……」
一人になるとついつい弱気になってしまう。最近の栄太は神経の図太いイカレタ姉ちゃんだなんて褒めてくれるけど。本来の私は深窓の令嬢。ダージリン・ティーを飲みながらスコーンを片手に……あれ? これは上層部の豚オヤジどもに受けがいいから演じているキャラだったわ。
私は、出来損ないの混ざり物。血が薄過ぎて、本来なら神代性を名乗ることも許されないのだ。だから、神代本家にやってきた当初は栄太のことを毛嫌いしていた。それなのにあの子は私を慕ってくれた。こんなにも醜くく浅ましい私を好きだと言って泣いた。あの頃の弟とは二度と会えないだなんて絶望感に打ちひしがれた時期もあったけれど……。ここ最近の栄太はずいぶんと人間らしくなった。十年かけて栄太を人間に戻してくれた彼女には感謝をしてもしきれない。
第四位は実質的な最上位。昔の栄太は『鬼神』として組織内で恐れられていた。常に合理的に立ち振る舞い、数多の命を救って、多くの命を切り捨てた。
鬼神として完成させられてしまったのは第32次異界防衛戦の時だろう。栄太が任務で潜入していた中学校が害魔の襲撃を受けた。
私が駆け付けた時には全てが決着していた。返り血でYシャツを真っ赤に染めた栄太が校庭の真ん中で立ち尽くしていた。数百の生徒が栄太を怯えた表情で見ていた。
『ネエちゃん、俺さ……守れなかったよ』
栄太がまだ幼さの残る顔を歪めた。今にも泣きそうな年相応の表情。
『泣きなさい。悲しい時に泣かないと心が壊れてしまうわよ』
栄太は、私にしがみついて嗚咽をもらした。私はよしよしと頭を撫でた。
『……俺さ。全てを守れる気でいたんだ』
『栄太は、すごいわよ。こんなに大勢を救ったじゃない。お姉ちゃんの自慢の弟よ』
栄太がゴシゴシと目を擦って、自分が救った生徒達を見遣った。
その視線に全く熱がこもっていなかったことにその時の私は気づかなかった。
数日後、第32次異界防衛戦の報告書に目を通した私は愕然とした。
犠牲者は、1年D組の生徒数名。彼らは栄太のクラスメイトだった。
栄太が一人で対峙したのは『黄昏の使徒』と呼ばれる最上位個体だった。今まで何人もの異界もりが迎撃に失敗してその命を散らした。ただ、それ程の害魔だ。ある程度出現パターンだって予測できるし、前兆だってあったはずだ。
吐き気がした。全ては策略。もっと早く気付くべきだった。修行という大義名分を掲げて、これまで学校から遠ざけていたのに、突然、中学に栄太を通わせた。
あの人だって人の親だったのだと嬉しく思った。これから少しづつ普通の家族みたいになれるんだって希望を抱いた。
全てが嘘偽り、栄太を完璧な兵器として完成させるための布石。あれから栄太は笑わなくなった。私と話している時は、昔の自分を演じていたけれど……。
私は心に誓った。栄太と凛を守るためならどんなことでもやろうと。いくら手が汚れようが、人に恨まれようが関係ない。私は二人を守るためなら喜んで命すら差し出す。