表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
78/79

オオゲツヒメの願い・後編

 ツクヨミは彼女の言い分を黙って聞いていた。

 衝撃のあまり、受け入れがたかったのかもしれない。

 やがて彼も、消え入りそうな、ようやく絞り出した声で尋ねた。


「……別れてから、ずっと。その事を考えていたのか。オオゲツヒメ」


「……いいえ。世界が闇に覆われてからずっと、この日が来るだろうと思っておりました」


「他に、方法は……無かったのか……?」


 欺瞞に満ちた問いだ、とツクヨミは思った。

 この悲壮な決意をしたのは確かにオオゲツヒメかもしれない。

 だが彼女を最初に救った時、この道を示したのは、他ならぬツクヨミ自身だったのだから。


「申し訳ございません、ツクヨミ様。ウケモチも、あれから色んな薬を作って処方して下さったのですけど……

 どうにもなりませんでした。どうやら……今のわたくしには『食物神』としての寿命が、差し迫っているようなのです」


「……貴女の命を刈り取る。その役目は、このツクヨミでなければらない。

 そう、だったね」

「……はい……」


 オオゲツヒメの命を終わらせるだけなら、それこそ人の手によってもできる。

 だがそれでは、彼女の魂魄こんぱくは黄泉へと送られ、腐ったけがれ神となってしまう。

 彼女の生命を穀物に宿らせ、再び大地に芽吹かせるためには……彼女の力の本質と真理を知る……月の神ツクヨミの力によって、彼女の今の生に幕を下ろす必要があった。


『オオゲツヒメ。再び限界が来たと思ったら、いつでも私を呼ぶといい。

 貴女が食物の神としての使命を全うできるよう、貴女の命の穂を刈り取ろう──』


 確かにあの時、そう告げた。ツクヨミもまた、いつかはこの日が来るだろうと思っていた。

 しかし……だからといって、己の手を簡単に振り下ろす事ができるだろうか。

 それが必要であり、行わなければ五穀が絶えると知っても。ツクヨミは躊躇ためらっていた。

 それは黄泉の国の旅を通じて、ツクヨミが今のオオゲツヒメに惹かれていた証であった。


「確認しよう。貴女の意識は消えるが、貴女の育てた種は残る。

 子々孫々に至るまで、貴女の命を宿した穀物はこの葦原アシハラノ中国ナカツクニに栄えるだろう──」

「ええ……良うございます。それこそが、わたくしの望みですから……」

「このツクヨミの手にかかるという事は、貴女のオオゲツヒメという名は、闇の中に忘却されてしまう。

 それが月の神と関わった者に対する『呪い』なのだ──それでも、良いのか?」

「……覚悟はできています。どうか、一思いに……」


 目を閉じて、ツクヨミのもたらす死を受け入れようとしたオオゲツヒメの前に、小さな闇の神ウケモチが姿を表した。


「オオゲツ……! 本当に、本当にいいのかよッ……!」

「ウケモチ。何度も説明したでしょう? 我儘はダメよ……

 それにわたくしは完全に死ぬ訳ではない。

 穀物に命を宿し、けがれすらも受け入れて、円環を幾度も繰り返し……永遠に生き続けるのよ」


 大地で育った穀物は人々に食され、体内で命の源となり……やがて穢れた糞尿となり、再び大地に還る。

 オオゲツヒメもツクヨミも、その真理を知った上での事なのだ。


「だけどよ! 今のオオゲツの意識は、消えちまうんだろう!?

 また食物の神として蘇る事があるのかもしれねえ。

 でもそれは、今とは違うオオゲツヒメだ!

 オイラの事も、ツクヨミの事も……みんな、忘れちまうんじゃあねえのかッ!?

 ……確かに、我儘かもしれねえけど……オイラ、そんなの……嫌だ……

 オイラ……今のオオゲツの事……好きなのに……大好き、なのにッ……」


 涙でぐしゃぐしゃになったウケモチの顔を見て、オオゲツヒメも涙を流した。

 稲は溢れ出て来なかった。純粋な、ただの涙だった。


「……ありがとう、ウケモチ。いつもいつも、わたくしを気にかけてくれて。傍にいてくれて……

 貴方がどれだけ、わたくしの救いになった事か……わたくしも、ウケモチの事が大好き……」


 二柱がそっと肩を寄せ合う様を見て、ツクヨミの傍にスサノオが立った。


「……スサノオ? 何を……」


「ツクヨミ。オオゲツヒメがお前に殺されちまったら……彼女の死んだって記憶が残らなくなるんだったな?

 だったら、オレにも手伝わせろ。やり方を教えてくれ。

 オオゲツヒメを殺したのは、オレって事にすりゃいい。そうすれば、彼女は忘却されずに済むはずだ」


「スサノオ、しかし……」


「温和なお前が罪を被る事なんざねーだろう、ツクヨミ。

 そこへ行くと、オレはスサノオだぜ?

 海原を荒れ放題にし、葦原アシハラノ中国ナカツクニを散々に騒がせ、高天原タカマガハラの畑を荒らし。

 とうとう罰を受けて追放された疫病神サマさ。

 今更、食物の神一柱を殺した悪名のひとつくらい、屁でもねえよ」


 スサノオの声は、僅かに震えていた。

 事もなげに言っているが、彼も心苦しいのが見て取れた。


「ウケモチ。オレがツクヨミと一緒に手を下せば、オオゲツヒメの名は残る。

 オレたちが忘れなければ……オオゲツヒメだって、オレたちを忘れないはずさ」


「…………」ウケモチは泣き腫らした顔のまま、無言で二柱に道を譲った。


 オオゲツヒメの首に、ツクヨミとスサノオが握った十拳剣とつかつるぎの刃が当たる。

 だが、どうしても振り下ろす事ができなかった。


「ダメですよ、そのような悲しげなお顔をなさっては。

 たわわに実る稲穂を刈るとき。民は笑顔でなければなりませぬ」


 オオゲツヒメは微笑んだが、声は震えていた。

 彼女は今も苦しく、そして恐ろしいのだろう。


「太陽はわたくしに育つ力を。月は安らぎを授けて下さいます。

 わたくしがいなくなっても、その命は五穀に宿り、この国の糧となり。

 永久に生き続けるのです。

 ツクヨミ様。どうかわたくしに触れ……ご覧くださいませ。

 わたくしを通して、葦原アシハラノ中国ナカツクニの行く末を──」


 オオゲツヒメの手がツクヨミに触れた。

 ツクヨミはオオゲツヒメを通して、垣間見る。五穀がゆっくりと大地に根付き、広まり、天災や飢饉と戦いながらも、豊穣の国として育つ姿を。

 それはあらゆる神々が夢見た、美しき瑞穂の国の未来──


「オオゲツヒメ、貴女は美しい。望月などより遥かに。

 貴女ほど美しき女神を、私は今まで見たことがない──!」


 ツクヨミは感極まって叫んだ。


「ツクヨミ様ほどの美しきお方に、そこまで言っていただけるなんて。

 オオゲツは果報者にございます──」


 オオゲツヒメの柔和な笑みは、どんな女神の笑顔よりも魅力的に映った。


 ツクヨミとスサノオはその日、食物の神の命を刈り取った。

 その時彼らが、どのような顔をしていたかは伝わっていない。


 オオゲツヒメの肉体から蚕と、五穀の種が生えた。

 ウケモチはそれらを手に取り、袋に入れた。


「……オイラの、本当の名は……アワシマ」ウケモチは静かに言った。


 アワシマ。ヒルコと同じく、イザナギとイザナミが産んだ数えられぬ子。

 不具であるため葦の舟で流され、常世国とこよのくにに流れ着き……造化三神の一柱たるカミムスビの養子となった神だ。


 真の名を告げる事で、彼の周囲の闇が消える。ウケモチという存在の役目が、今終わった。

 彼はもうツクヨミの眷属でなくなり、夜之食国ヨルノオスクニの残り香を振り払ったのだ。


「オイラの母、カミムスビ様の名において、オオゲツ……お前の残した種は、必ずこの国に根付くよう、広める事を──誓う」


 それがウケモチ……いや、アワシマの彼女への別れの言葉だった。


 この出来事が、葦原アシハラノ中国ナカツクニの五穀の起源とされる。

 古事記にはスサノオがオオゲツヒメを斬り、日本書紀にはツクヨミがウケモチを斬ったと記されている。

 その記述の違いが、食物の女神の名を後世に残すための計らいだったか否かは、今となっては誰も知る者はいない。


**********


 「中秋の名月」とも呼ばれる、月見の習慣は中国から伝わった。平安時代の貴族が舟を出し、水面に映った月を愛でる歌を詠んだり、宴を楽しんだりした。


 今日の日本における月見は、ススキを飾って月見団子・里芋・枝豆・栗などを盛り、御酒を供えて月を眺める。ススキは稲に見立てた供え物と言われている。


 月と農業は密接な繋がりがあった。稲の収穫は夜までかかる事が多く、その間の作業は月明かりが頼りだった。

 人々は月の神を敬い、豊穣の感謝を捧げた。

 それが今も伝わる月見の風習となったのだ。


 満月にかかるススキ。それはまるで、ツクヨミに寄り添うオオゲツヒメの姿を表しているかのように──

 古事記ではスサノオに殺される事で有名なオオゲツヒメ。

 余り知られていませんが、実は後の記述を読むと、しれっと復活・再登場していてハヤマトなる山の神と結婚し、沢山の子を儲けていたりします。

 彼女の「円環を繰り返し、永遠に生き続ける」という台詞も、あながち的外れとも言い切れないのですね。


 子宝に恵まれた事からも、第二の生では末永く幸せに暮らしたと考えていいでしょう。この記述を読んだ時、筆者自身も救われた心地がしました。

 良かったなぁ……

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ