オオゲツヒメの願い・後編
ツクヨミは彼女の言い分を黙って聞いていた。
衝撃のあまり、受け入れがたかったのかもしれない。
やがて彼も、消え入りそうな、ようやく絞り出した声で尋ねた。
「……別れてから、ずっと。その事を考えていたのか。オオゲツヒメ」
「……いいえ。世界が闇に覆われてからずっと、この日が来るだろうと思っておりました」
「他に、方法は……無かったのか……?」
欺瞞に満ちた問いだ、とツクヨミは思った。
この悲壮な決意をしたのは確かにオオゲツヒメかもしれない。
だが彼女を最初に救った時、この道を示したのは、他ならぬツクヨミ自身だったのだから。
「申し訳ございません、ツクヨミ様。ウケモチも、あれから色んな薬を作って処方して下さったのですけど……
どうにもなりませんでした。どうやら……今のわたくしには『食物神』としての寿命が、差し迫っているようなのです」
「……貴女の命を刈り取る。その役目は、このツクヨミでなければらない。
そう、だったね」
「……はい……」
オオゲツヒメの命を終わらせるだけなら、それこそ人の手によってもできる。
だがそれでは、彼女の魂魄は黄泉へと送られ、腐った穢れ神となってしまう。
彼女の生命を穀物に宿らせ、再び大地に芽吹かせるためには……彼女の力の本質と真理を知る……月の神ツクヨミの力によって、彼女の今の生に幕を下ろす必要があった。
『オオゲツヒメ。再び限界が来たと思ったら、いつでも私を呼ぶといい。
貴女が食物の神としての使命を全うできるよう、貴女の命の穂を刈り取ろう──』
確かにあの時、そう告げた。ツクヨミもまた、いつかはこの日が来るだろうと思っていた。
しかし……だからといって、己の手を簡単に振り下ろす事ができるだろうか。
それが必要であり、行わなければ五穀が絶えると知っても。ツクヨミは躊躇っていた。
それは黄泉の国の旅を通じて、ツクヨミが今のオオゲツヒメに惹かれていた証であった。
「確認しよう。貴女の意識は消えるが、貴女の育てた種は残る。
子々孫々に至るまで、貴女の命を宿した穀物はこの葦原中国に栄えるだろう──」
「ええ……良うございます。それこそが、わたくしの望みですから……」
「このツクヨミの手にかかるという事は、貴女のオオゲツヒメという名は、闇の中に忘却されてしまう。
それが月の神と関わった者に対する『呪い』なのだ──それでも、良いのか?」
「……覚悟はできています。どうか、一思いに……」
目を閉じて、ツクヨミのもたらす死を受け入れようとしたオオゲツヒメの前に、小さな闇の神ウケモチが姿を表した。
「オオゲツ……! 本当に、本当にいいのかよッ……!」
「ウケモチ。何度も説明したでしょう? 我儘はダメよ……
それにわたくしは完全に死ぬ訳ではない。
穀物に命を宿し、穢れすらも受け入れて、円環を幾度も繰り返し……永遠に生き続けるのよ」
大地で育った穀物は人々に食され、体内で命の源となり……やがて穢れた糞尿となり、再び大地に還る。
オオゲツヒメもツクヨミも、その真理を知った上での事なのだ。
「だけどよ! 今のオオゲツの意識は、消えちまうんだろう!?
また食物の神として蘇る事があるのかもしれねえ。
でもそれは、今とは違うオオゲツヒメだ!
オイラの事も、ツクヨミの事も……みんな、忘れちまうんじゃあねえのかッ!?
……確かに、我儘かもしれねえけど……オイラ、そんなの……嫌だ……
オイラ……今のオオゲツの事……好きなのに……大好き、なのにッ……」
涙でぐしゃぐしゃになったウケモチの顔を見て、オオゲツヒメも涙を流した。
稲は溢れ出て来なかった。純粋な、ただの涙だった。
「……ありがとう、ウケモチ。いつもいつも、わたくしを気にかけてくれて。傍にいてくれて……
貴方がどれだけ、わたくしの救いになった事か……わたくしも、ウケモチの事が大好き……」
二柱がそっと肩を寄せ合う様を見て、ツクヨミの傍にスサノオが立った。
「……スサノオ? 何を……」
「ツクヨミ。オオゲツヒメがお前に殺されちまったら……彼女の死んだって記憶が残らなくなるんだったな?
だったら、オレにも手伝わせろ。やり方を教えてくれ。
オオゲツヒメを殺したのは、オレって事にすりゃいい。そうすれば、彼女は忘却されずに済むはずだ」
「スサノオ、しかし……」
「温和なお前が罪を被る事なんざねーだろう、ツクヨミ。
そこへ行くと、オレはスサノオだぜ?
海原を荒れ放題にし、葦原中国を散々に騒がせ、高天原の畑を荒らし。
とうとう罰を受けて追放された疫病神サマさ。
今更、食物の神一柱を殺した悪名のひとつくらい、屁でもねえよ」
スサノオの声は、僅かに震えていた。
事もなげに言っているが、彼も心苦しいのが見て取れた。
「ウケモチ。オレがツクヨミと一緒に手を下せば、オオゲツヒメの名は残る。
オレたちが忘れなければ……オオゲツヒメだって、オレたちを忘れないはずさ」
「…………」ウケモチは泣き腫らした顔のまま、無言で二柱に道を譲った。
オオゲツヒメの首に、ツクヨミとスサノオが握った十拳剣の刃が当たる。
だが、どうしても振り下ろす事ができなかった。
「ダメですよ、そのような悲しげなお顔をなさっては。
たわわに実る稲穂を刈るとき。民は笑顔でなければなりませぬ」
オオゲツヒメは微笑んだが、声は震えていた。
彼女は今も苦しく、そして恐ろしいのだろう。
「太陽はわたくしに育つ力を。月は安らぎを授けて下さいます。
わたくしがいなくなっても、その命は五穀に宿り、この国の糧となり。
永久に生き続けるのです。
ツクヨミ様。どうかわたくしに触れ……ご覧くださいませ。
わたくしを通して、葦原中国の行く末を──」
オオゲツヒメの手がツクヨミに触れた。
ツクヨミはオオゲツヒメを通して、垣間見る。五穀がゆっくりと大地に根付き、広まり、天災や飢饉と戦いながらも、豊穣の国として育つ姿を。
それはあらゆる神々が夢見た、美しき瑞穂の国の未来──
「オオゲツヒメ、貴女は美しい。望月などより遥かに。
貴女ほど美しき女神を、私は今まで見たことがない──!」
ツクヨミは感極まって叫んだ。
「ツクヨミ様ほどの美しきお方に、そこまで言っていただけるなんて。
オオゲツは果報者にございます──」
オオゲツヒメの柔和な笑みは、どんな女神の笑顔よりも魅力的に映った。
ツクヨミとスサノオはその日、食物の神の命を刈り取った。
その時彼らが、どのような顔をしていたかは伝わっていない。
オオゲツヒメの肉体から蚕と、五穀の種が生えた。
ウケモチはそれらを手に取り、袋に入れた。
「……オイラの、本当の名は……アワシマ」ウケモチは静かに言った。
アワシマ。ヒルコと同じく、イザナギとイザナミが産んだ数えられぬ子。
不具であるため葦の舟で流され、常世国に流れ着き……造化三神の一柱たるカミムスビの養子となった神だ。
真の名を告げる事で、彼の周囲の闇が消える。ウケモチという存在の役目が、今終わった。
彼はもうツクヨミの眷属でなくなり、夜之食国の残り香を振り払ったのだ。
「オイラの母、カミムスビ様の名において、オオゲツ……お前の残した種は、必ずこの国に根付くよう、広める事を──誓う」
それがウケモチ……いや、アワシマの彼女への別れの言葉だった。
この出来事が、葦原中国の五穀の起源とされる。
古事記にはスサノオがオオゲツヒメを斬り、日本書紀にはツクヨミがウケモチを斬ったと記されている。
その記述の違いが、食物の女神の名を後世に残すための計らいだったか否かは、今となっては誰も知る者はいない。
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「中秋の名月」とも呼ばれる、月見の習慣は中国から伝わった。平安時代の貴族が舟を出し、水面に映った月を愛でる歌を詠んだり、宴を楽しんだりした。
今日の日本における月見は、薄を飾って月見団子・里芋・枝豆・栗などを盛り、御酒を供えて月を眺める。薄は稲に見立てた供え物と言われている。
月と農業は密接な繋がりがあった。稲の収穫は夜までかかる事が多く、その間の作業は月明かりが頼りだった。
人々は月の神を敬い、豊穣の感謝を捧げた。
それが今も伝わる月見の風習となったのだ。
満月にかかる薄。それはまるで、ツクヨミに寄り添うオオゲツヒメの姿を表しているかのように──
古事記ではスサノオに殺される事で有名なオオゲツヒメ。
余り知られていませんが、実は後の記述を読むと、しれっと復活・再登場していてハヤマトなる山の神と結婚し、沢山の子を儲けていたりします。
彼女の「円環を繰り返し、永遠に生き続ける」という台詞も、あながち的外れとも言い切れないのですね。
子宝に恵まれた事からも、第二の生では末永く幸せに暮らしたと考えていいでしょう。この記述を読んだ時、筆者自身も救われた心地がしました。
良かったなぁ……