オオゲツヒメの願い・前編
オオゲツヒメが粟国に帰ると、村はひどく荒廃していた。
彼女の予想通り、村人たちは食糧の自給ができず、バラバラに離散したようだ。
その過程で、多くの者が路頭に迷い、あるいは飢えていったに違いない。
それでも村は完全には死んでいなかった。オオゲツヒメから受け取った穀物の種を、試行錯誤を繰り返しながら辛抱強く育てようとしていた。
生き残った僅かな村人の姿を見て、オオゲツヒメは涙した。
彼女が粟国に着く頃、アマテラスの復活によって陽の光が戻った。
帰還した食物の女神は、村人たちに歓迎されたのは言うまでもない。
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オオゲツヒメとは、食物を司る女神であると、一般には知られている。
彼女は体内に「田畑」を持ち、穀物を育て、蚕や五穀などを、肉体の様々な場所から生み出す。
だが彼女の力の本質を知っていれば……食物神という表現は正確でないと分かるだろう。
彼女は本来は、大地の女神なのだ。
穀物を生み出す力は、その副産物に過ぎない。
大地は豊かな恵みをもたらすが、肥沃な大地を得るためには、時には穢れを受け入れ、身を委ねなければならなかった。
オオゲツヒメは神産みによって生まれ、葦原中国に降り立ったが、当初は人々から「穢れた神」と疎まれ、散々に迫害されていた。
人々の言葉は間違いではなかった。大地は穢れの力を得てこそ、肥え太り、五穀を実らせるのだから。
しかし蔑まれ、住処を追われるたび、オオゲツヒメの心の中に、憎しみの穢れが芽生え、大きくなっていった。
人々のために実り豊かな穀物を提供しているのに、何故こんな仕打ちを受けねばならないのだろう?
理不尽だ。自分はただ、食物神として皆の役に立ちたい。それだけなのに。
膨大な憎しみの穢れを抱え、荒野を彷徨っていた時、オオゲツヒメはこの穢れを完全に受け入れようかとさえ思った。
今の自分がいなくなれば。変質し、人々に災いのみをもたらす禍神となれば。
荒ぶる穢れに苛まれる事なく、心置きなく振舞えよう。
憎しみも、悲しみも。痛みも、恨みも。何も我慢する必要はない。
オオゲツヒメをないがしろにした者たちに、飢え死にの末路が待っているのだ。いい気味ではないか。
(でも……極限まで思い詰めていたわたくしの前に、現れて下さったのが……
ツクヨミ様。あの方がウケモチを遣わして下さった事で、今のわたくしがある)
ツクヨミとの出会いは、オオゲツヒメにとって何よりの救いだった。
小さな闇の神の助力で、誰にも憚られる事なく食物を生み出せる。人々は彼女の奇跡に感謝し、彼女を救い主として祀った。
幸せだった。食物神としての使命を全うし、皆に喜ばれるのが、オオゲツヒメの至上の喜びだった。それに気づかせてくれたのが……ツクヨミであり、ウケモチであった。
(願わくば、ツクヨミ様……
このオオゲツの、最期の我儘を……聞いて下さいますよう……)
確か今日のはずだ。
ツクヨミと会う約束をしていたのは。
程なくして、オオゲツヒメの神殿に訪問者があった。
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訪れたのは、スサノオであった。しかしオオゲツヒメは知っている。
彼の首飾りには黒い勾玉があり、神殿の中に入るとたちまち美しい顔を持つ神の姿を取った。
スサノオの兄、月の神ツクヨミである。
「久しいね、オオゲツヒメ」ツクヨミは言った。
「黄泉の国では、貴女のお陰で我が魂魄は命拾いした。とても感謝している」
「お久しゅうございます、ツクヨミ様。スサノオ様」
オオゲツヒメは平伏して答えた。
「粟国までの長旅、お疲れの事でしょう。夕餉の支度をさせていただきますわ」
「おお、頼むぜ!」スサノオは明るく言った。
「オオゲツヒメの飯は美味いからな! 楽しみにしてたんだよ」
二柱の様子に、オオゲツヒメの顔も自然と綻び……夕食を摂る事となった。
ツクヨミとスサノオは、たらふく飯を平らげた。
そんな二柱を、オオゲツヒメはただ微笑んで見つめている。
「……オオゲツヒメ」ツクヨミが、意を決して口を開いた。
「黄泉の国を旅した時よりも、身体がやつれているね。……何が、あったんだい?
私が死にかけていた時、私に桃の実を提供してくれたのが、深刻な影響を与えていたというのか?」
「……えっ。ちょっと待てよツクヨミ……」スサノオも不穏な声を上げかけた。
「いいえ。そうではありません」オオゲツヒメは即座に否定した。
「今のわたくしの身体の不調は、ずっと前から。
世界が闇に覆われた日から、続いていましたわ……
そんな中、わたくしの神力を使ってツクヨミ様の魂魄を救えたのですから。お気に病む事などございません」
「……なら、その身体はどうして……?」
「穢れを……内に溜めこみ過ぎてしまったのです」
オオゲツヒメの声は震えていた。柔和な笑顔も、今は見るのも痛々しい。
「今のわたくしは、長く続いた穢れを体内で浄化する事もままならない状態です。
アマテラス様が復活なされ、陽の光が戻った今なお……わたくしの穢れは鎮まる事はありません。
このままではわたくしは……今度こそ穢れに飲まれてしまうでしょう……」
彼女の苦しげな言葉に、ツクヨミは珍しく気色ばんで叫んだ。
「そうか……ならば、私の助けが必要なのだな!
初めて貴女に会った時のように……貴女の中にある穢れを再び鎮めよう──」
「ええ……ツクヨミ様。貴方を呼んだのは他でもない。
わたくしを助けて欲しいからですわ」
微笑むオオゲツヒメに、ツクヨミはいくばくか救われた心地がした。
ところが……
「……ツクヨミ様。わたくしを、人々を救うために……
わたくしの命を、刈り取って下さいませ」
彼女の懇願の言葉に、ツクヨミは絶句してしまった。
「お、おい何を言ってるんだよオオゲツヒメ!?」スサノオが声を荒げた。
「命を刈り取るって……どういう事だよ。
ツクヨミに、アンタを殺す手伝いをしろってのか!?」
「今のわたくしは、放置すれば禍神となるでしょう。
そうなれば、わたくしの体内にある『田畑』で育っている穀物は全て……穢れて使い物にならなくなります。
穢れた穀物は、新たに命を宿す事なく、死に絶えます。
ただ死ぬのではなく、『絶えて』しまうのです。
その前にわたくしの命を刈ると共に、我が体内にある全ての命を……救っていただきたいのです」
オオゲツヒメは笑顔を絶やさなかったが、その言葉は真剣そのものだった。
さしものスサノオも、彼女の心の奥底にある覚悟を読み取ったのか……二の句を継げず押し黙った。