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オオゲツヒメの願い・前編

 オオゲツヒメが粟国あわのくにに帰ると、村はひどく荒廃していた。

 彼女の予想通り、村人たちは食糧の自給ができず、バラバラに離散したようだ。

 その過程で、多くの者が路頭に迷い、あるいは飢えていったに違いない。


 それでも村は完全には死んでいなかった。オオゲツヒメから受け取った穀物の種を、試行錯誤を繰り返しながら辛抱強く育てようとしていた。

 生き残った僅かな村人の姿を見て、オオゲツヒメは涙した。

 彼女が粟国あわのくにに着く頃、アマテラスの復活によって陽の光が戻った。

 帰還した食物の女神は、村人たちに歓迎されたのは言うまでもない。


**********


 オオゲツヒメとは、食物を司る女神であると、一般には知られている。

 彼女は体内に「田畑」を持ち、穀物を育て、蚕や五穀などを、肉体の様々な場所から生み出す。

 だが彼女の力の本質を知っていれば……食物神という表現は正確でないと分かるだろう。

 彼女は本来は、大地の女神なのだ。

 穀物を生み出す力は、その副産物に過ぎない。


 大地は豊かな恵みをもたらすが、肥沃な大地を得るためには、時にはけがれを受け入れ、身を委ねなければならなかった。

 オオゲツヒメは神産みによって生まれ、葦原アシハラノ中国ナカツクニに降り立ったが、当初は人々から「穢れた神」と疎まれ、散々に迫害されていた。

 人々の言葉は間違いではなかった。大地はけがれの力を得てこそ、肥え太り、五穀を実らせるのだから。


 しかし蔑まれ、住処を追われるたび、オオゲツヒメの心の中に、憎しみのけがれが芽生え、大きくなっていった。

 人々のために実り豊かな穀物を提供しているのに、何故こんな仕打ちを受けねばならないのだろう?

 理不尽だ。自分はただ、食物神として皆の役に立ちたい。それだけなのに。


 膨大な憎しみのけがれを抱え、荒野を彷徨っていた時、オオゲツヒメはこのけがれを完全に受け入れようかとさえ思った。

 今の自分がいなくなれば。変質し、人々に災いのみをもたらす禍神マガツカミとなれば。

 荒ぶるけがれに苛まれる事なく、心置きなく振舞えよう。

 憎しみも、悲しみも。痛みも、恨みも。何も我慢する必要はない。

 オオゲツヒメをないがしろにした者たちに、飢え死にの末路が待っているのだ。いい気味ではないか。


(でも……極限まで思い詰めていたわたくしの前に、現れて下さったのが……

 ツクヨミ様。あの方がウケモチを遣わして下さった事で、今のわたくしがある)


 ツクヨミとの出会いは、オオゲツヒメにとって何よりの救いだった。

 小さな闇の神の助力で、誰にも憚られる事なく食物を生み出せる。人々は彼女の奇跡に感謝し、彼女を救い主として祀った。

 幸せだった。食物神としての使命を全うし、皆に喜ばれるのが、オオゲツヒメの至上の喜びだった。それに気づかせてくれたのが……ツクヨミであり、ウケモチであった。


(願わくば、ツクヨミ様……

 このオオゲツの、最期の我儘を……聞いて下さいますよう……)


 確か今日のはずだ。

 ツクヨミと会う約束をしていたのは。


 程なくして、オオゲツヒメの神殿に訪問者があった。


**********


 訪れたのは、スサノオであった。しかしオオゲツヒメは知っている。

 彼の首飾りには黒い勾玉があり、神殿の中に入るとたちまち美しいかんばせを持つ神の姿を取った。

 スサノオの兄、月の神ツクヨミである。


「久しいね、オオゲツヒメ」ツクヨミは言った。

「黄泉の国では、貴女のお陰で我が魂魄こんぱくは命拾いした。とても感謝している」


「お久しゅうございます、ツクヨミ様。スサノオ様」

 オオゲツヒメは平伏して答えた。

粟国あわのくにまでの長旅、お疲れの事でしょう。夕餉ゆうげの支度をさせていただきますわ」


「おお、頼むぜ!」スサノオは明るく言った。

「オオゲツヒメの飯は美味いからな! 楽しみにしてたんだよ」


 二柱の様子に、オオゲツヒメの顔も自然と綻び……夕食を摂る事となった。


 ツクヨミとスサノオは、たらふく飯を平らげた。

 そんな二柱を、オオゲツヒメはただ微笑んで見つめている。


「……オオゲツヒメ」ツクヨミが、意を決して口を開いた。

「黄泉の国を旅した時よりも、身体がやつれているね。……何が、あったんだい?

 私が死にかけていた時、私に桃の実を提供してくれたのが、深刻な影響を与えていたというのか?」


「……えっ。ちょっと待てよツクヨミ……」スサノオも不穏な声を上げかけた。


「いいえ。そうではありません」オオゲツヒメは即座に否定した。

「今のわたくしの身体の不調は、ずっと前から。

 世界が闇に覆われた日から、続いていましたわ……

 そんな中、わたくしの神力を使ってツクヨミ様の魂魄こんぱくを救えたのですから。お気に病む事などございません」


「……なら、その身体はどうして……?」

けがれを……内に溜めこみ過ぎてしまったのです」


 オオゲツヒメの声は震えていた。柔和な笑顔も、今は見るのも痛々しい。


「今のわたくしは、長く続いたけがれを体内で浄化する事もままならない状態です。

 アマテラス様が復活なされ、陽の光が戻った今なお……わたくしのけがれは鎮まる事はありません。

 このままではわたくしは……今度こそけがれに飲まれてしまうでしょう……」


 彼女の苦しげな言葉に、ツクヨミは珍しく気色ばんで叫んだ。


「そうか……ならば、私の助けが必要なのだな!

 初めて貴女に会った時のように……貴女の中にあるけがれを再び鎮めよう──」


「ええ……ツクヨミ様。貴方を呼んだのは他でもない。

 わたくしを助けて欲しいからですわ」


 微笑むオオゲツヒメに、ツクヨミはいくばくか救われた心地がした。

 ところが……


「……ツクヨミ様。わたくしを、人々を救うために……

 わたくしの命を、刈り取って下さいませ」


 彼女の懇願の言葉に、ツクヨミは絶句してしまった。


「お、おい何を言ってるんだよオオゲツヒメ!?」スサノオが声を荒げた。

「命を刈り取るって……どういう事だよ。

 ツクヨミに、アンタを殺す手伝いをしろってのか!?」


「今のわたくしは、放置すれば禍神マガツカミとなるでしょう。

 そうなれば、わたくしの体内にある『田畑』で育っている穀物は全て……けがれて使い物にならなくなります。

 けがれた穀物は、新たに命を宿す事なく、死に絶えます。

 ただ死ぬのではなく、『絶えて』しまうのです。

 その前にわたくしの命を刈ると共に、我が体内にある全ての命を……救っていただきたいのです」


 オオゲツヒメは笑顔を絶やさなかったが、その言葉は真剣そのものだった。

 さしものスサノオも、彼女の心の奥底にある覚悟を読み取ったのか……二の句を継げず押し黙った。

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