六.アマテラスの復活
(動いた!)(動いたわッ!)(よしッ!)(ついに来た!)(計画通りッ)
天岩戸が微かに動いた音を、タヂカラオ他五柱の神々は聞き逃さなかった。
『魂』のほとんどを奪われた状態で、神力も十全ではないだろうに、岩を動かす余力は残っている。
宴の力もあるだろうが、アマテラスが三貴子の一柱であり、衰えても底知れぬ力を未だ秘めている証でもあった。
(あ、危なかったッ……!
お多福の面が無かったら、今頃どうなっていたか……
ありがとう、オオゲツヒメちゃん……!)
宴の熱狂をどうにか絶やさずに済んだ事を、ウズメは心の中で感謝した。
ついに計画の第二段階が達成された。ところが……大岩を動かしたアマテラスの第一声は、彼らの喜びを一瞬で吹き飛ばすものだった。
「何、やってるの……? お祭り……?
わたし、何にも聞かされてないんだけど……?」
アマテラスの幽鬼めいた言葉には、自分だけが招かれなかった事に対する不満が滲み出ていた。
(ヒメサマ、寝起きな事も相まって機嫌がものすごく悪いッ…………!)
何とかこの状況の援護に回りたかったタヂカラオだったが、岩屋戸はほんの僅かに動いたに過ぎず、これではせいぜい声のやり取りしかできない。
タヂカラオに与えられた使命を全うするに足りず、ここで彼の存在を露呈させる訳にはいかなかった。
(それに状況的に今の状態のままだと厳しいぞ。岩屋戸が開いた事に……
上空の禍神が気づきやがったッ…………!)
僅かではあるが、外界と隔絶されていた天岩屋が繋がってしまった。
上空で暗雲を形作っていた巨頭の禍神、オオマガツヒは目ざとくそれを察知していた。
今まで際限なく吐き出していた涙や吐瀉を止め、ゆっくりと顔面を岩屋の真上へと移動させつつある。
どうやら多頭のヤソマガツヒによる地上攻撃は囮で、岩屋戸が開いた隙を狙ってアマテラスに襲い掛かるのが彼らの本命だったようだ。
(一刻の猶予もねえ。ウズメ!
何でもいいから、アマテラス様の気をもっと引いてくれッ!)
(うえええ!? き、気を引くったって、いきなり言われてもッ……!)
何とかお多福面によって陽の気を失う事は防げたウズメだが、未だ残る羞恥心の混乱から立ち直ってはいなかった。
タヂカラオに無茶振りされた挙句、思わず次のように口走った。
「え、え、えーと!
アマテラス様よりも凄い力を持つ新しい太陽神が降臨しちゃったの!
だからみんなでお祝い! それで楽しく騒いでるのよッ!」
偽造品の女神像は用意しているし、オモイカネの筋書におおむね沿った返答ではあったが。
混乱の極みにあったウズメはさらに続けてしまった。
「だからアマテラス様! こっち来ちゃダメよ!
彼女はとっても強い神力の持ち主で、見たら目が潰れちゃうかもしれないし!」
(おいィィィィ!? ウズメお前、何を口走ってやがるゥゥゥゥ!?)
(ご、ご、ごめんなさぁい!?
だ、だって何て言っていいか分からなくってついッ……!
上から禍神だって迫ってるし! このままだと危ないじゃない!)
ウズメの失言に、タヂカラオは天を仰いだ。
オオマガツヒの醜悪で巨大な顔が近づいて来るのが見える。
このままアマテラスがウズメの言葉通り奥へ引っ込んだら、何もかも終わりだ。
計画は失敗した──かに見えた。
「……へえええ……このわたしよりも凄い力を持つ、太陽神ねえ……」
アマテラスの声は、普段の穏やかな彼女からは想像もつかないほど低く、暗く、怒りに満ちていた。
「確かに今のわたしは、寝起きだしすごく気分も悪いし、神力も底をついてる感じだけどさ……
だからってみんな……新しい神様が来たら、わたしに何の断りもなしにあっさり乗り換えちゃうわけ?
酷くない? ねえ、酷すぎない? 新しい太陽神サマとやらが、どれだけ魅力的か知らないけど」
(こ、こ、怖ぇええええ!?
スサノオ相手に完全武装してた時より怖ぇよヒメサマッ!)
「いいわ。見たら目が潰れちゃうくらい凄い神様なのよね?
次期太陽神に相応しいかどうか、このわたし自ら判定してあげるわ──」
ウズメの勢い任せの言葉に異様な対抗心が燃え上ってしまったのか、アマテラスは奥に引き籠もるどころか、さらに岩戸に手をかけ、持てる神力の全てを使って軽々と動かしてしまった!
何にせよ、災い転じて福となす。
その様子を見たオモイカネが、声高に二柱に告げた。
「──今です! コヤネ! フトダマ! 女神像をッ!」
『おうッッ!!』
アマテラスが岩屋戸を大きく動かした瞬間を狙って、コヤネ達は女神像の位置を動かし、中央にある鏡──アマテラスの『魂』が真正面に来るように調整した。
彼女の持つ陽の気に共鳴し、鏡から凄まじい光が発せられる!
「きゃっ…………!?」
さしものアマテラスも、鏡の強烈な光に目を覆ってしまった。
同時に、上空から迫っていたオオマガツヒも目を灼かれて、怯んでいた。
(しめたッ…………! 今なら行ける!
ヒメサマを、安全な宴の中へと連れ出せるッ!!)
タヂカラオは今この瞬間が、最後にして最大の好機だと確信した。
岩屋戸は大きく開いている。女神一柱を外に引きずり出すには十分だ。
「ヒメサマッ!!」
タヂカラオは岩屋戸の影から飛び出し、目を覆っていたアマテラスのたおやかな腕を必死で掴んだ。
この細腕で、あの大岩を苦もなく動かせたのが信じられないほどである。
「えっ……タヂカラオ……? いつからそこに……? どうして……?」
「細かい説明は後だ! とにかく今はッ……あの女神像の所へ行ってくれッ!!」
「え……像って。アレ、新しい神様なんじゃ……?」
「そんなもん、最初からいやしねえよ! ヒメサマ以上の太陽神なんざ、高天原にいてたまるもんかッ!」
タヂカラオは力任せに、戸惑うアマテラスの身体を天岩屋から引っ張り出した!
彼女は頼りない足取りのまま、とてとてと勢い余ってたたらを踏んでしまう。
そこに鏡を携えたコヤネがやって来て、倒れそうになった女神の身体を支えた。
上空には、視力を回復したオオマガツヒの巨大な顔が覆い被さろうとしている。
「……今はなァ、太陽が再び昇る、皆が待ち望んだ時なんだ。
薄汚ェどんより雲なんざ、お呼びじゃあねェんだよッ!!」
岩屋戸が開いた後、どういう訳か大岩はタヂカラオが持ち上げ、信濃国まで放り投げたという伝説がある。
わざわざ注連縄を用いてまで岩屋を塞いだのに、何故元の大岩は投げてしまったのか?
その答えは単純だった。今のこの状況が、全てを物語っている。
「うおおおおおおおおおッッッッ……!!」
タヂカラオはあらん限りの力と雄叫びを上げ、男手千人は必要であろう、巨大な岩屋戸を持ち上げた!
「信濃国までッ……ぶっ飛びやがれェ腐れ神がァァァァッッ!!!!」
ブオオオンッ!!!!
タヂカラオはさらに気合いを入れ、巨岩を天高く放り投げた。
目前まで迫っていたオオマガツヒの眉間を正確に打ち抜いたかと思うと……巨顔の禍神は苦悶の咆哮を上げ、あっという間に四散し、雲散霧消していった!
ギャアアアアアアアア────!!!!
岩屋戸が禍神の急所を貫き、その凄まじい衝撃によって顔全体も遥か遠くまで吹っ飛ばされていた。
オオマガツヒの穢れの残骸があちこちに飛び散るが、フトダマが素早い動きで注連縄を岩屋や社の周辺に張り巡らせており、その侵入を防ぎ切っていた。
時を同じくしてアマテラスの肉体に、『魂』たる鏡が重なっていた。
太陽の女神の体内に、失われていた魂が、神力が流れ込んでいく。
パアッ!!!!
目映い光が満ち溢れた。白黒だった死の世界に、ありとあらゆる光が、色が瞬く間に戻った。
空は青く、雲は白く。木々は緑を取り戻し、海は青さを取り戻し……緩慢な死を受け入れつつあった世界に、再び生の躍動が始まった。
そして天頂に照り輝くは──天上と地上の神々と人々が、全ての生きとし生けるものが、ずっと待ち望んでいた──太陽。
太陽神アマテラスの復活。彼女を中心とした照り明るき光は、瞬時に葦原中国全土に、そして高天原にまで届いた。
ヤソマガツヒら禍神の眷属は激しい陽光に晒され、悲鳴を上げる事もままならず消滅していった。
全てに決着がついた。それを知った神々は、大歓声を上げた。
ウオオオオオオオオ────!!!!
薄暗かった神々の顔に、光が戻った。白く照らされ、生きる活力が戻った。
神々はその様子を、次のような言葉を用いて囃し立て、褒め称えた。
(註:「囃し立てる」という言葉は本来、場を盛り上げ、楽しんでもらうという意味である)
天晴れ
あな面白
あな手伸し
あな清明
おけ おけ
我々が今日知る、「天晴れ」「面白い」「楽しい」といった明るい言霊は、この時に生まれたとされる。
「え、え、え……みんな……?」
アマテラスは状況が飲み込めず、独り目を白黒させていた。
「皆、貴女様が目覚めるのを心待ちにしていたのですよ」
傍にいたコヤネが耳打ちした。
「すでに注連縄を張らせていただきました。もう岩屋には戻れませんよ」
フトダマがやってきて、さらに言葉を重ねる。
アマテラスはここに来てようやく理解した。
自分が意識を失って長い時間が経ち──その間、世界が闇で覆われていた事を。
高天原のみならず、葦原中国の神々も、自分を目覚めさせるために、この宴を全力で催したのだという事を。
「とんだ……思い違いをしていたみたいね。わたし……
わたしなんかの為に。みんな、みんな──ありが、とう──」
美しき太陽の女神の瞳から、大粒の涙が零れた。嬉し涙であった。
それを見て集いし神々は、再び大歓声を上げて彼女の復活を寿いだのだった──
「……よかった。何とか無事……成功した、よう──ですね──」
皆に讃えられ、輝く笑顔を見せる女神の姿を見て、オモイカネは満足げに微笑み……そのまま地面に倒れた。
あれだけの長時間、布瑠の言を唱え続けたのだ。神力を消耗し過ぎたのだろう。
意識を失ったオモイカネは、後に駆けつけた船の神トリフネによって発見され、高天原に運ばれる事となる。
蘇ったアマテラスを交えた盛大な宴は、その日の間中続いた。
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「スサノオ……全部終わったな」
「……ああ。やっぱり姉上はすげェや」
ツクヨミの言葉に、スサノオは鷹揚に頷いた。
「『私』の役目も終わりだ。汝……ツクヨミが以前言った事、忘れるなよ」
「忘れるもんかよ。みんな、この『戦い』は忘れる。
その覚悟はとっくにできてる」
「良い返事だ」
女月神は愉快そうに微笑んで……その気配を消した。
すでにツクヨミは、元の男神の姿に戻っている。
スサノオは傍らで共に戦っていたタケミカヅチに言った。
「タケミカヅチ。オレを連行してくれ」
「!……貴殿は、本当にそれでよいのか?」
「どうせこの戦いの事は誰も覚えてねえんだ。
だったらオレは、ただの脱走者だろう?
高天原の守護神サマは、そんな不埒なオレを捕まえに来たって事でいいさ」
スサノオのさばけた態度に、タケミカヅチは小さく頷き、彼の提案を飲んだ。
「もうすぐこの地にトリフネが来る。それに乗って高天原へ戻ろう」
「……あいよ」
多くの神々がアマテラス復活に貢献した事が、神話には記されている。
だが……その裏で禍神らの襲撃があった事や、それを防ぐべく戦っていた神々がいた事は、記録されていない。
ツクヨミが去った事で、天岩戸で起きたスサノオやタケミカヅチの活躍の記憶は、忘却されていた。




