五.最高潮(クライマックス)
タケミカヅチは天御柱を通じて地上に降り立とうとしていたが、並大抵の事ではない。
文字通り落雷の中を瞬時に通るのであり、雷神以外の存在がこれを用いれば一瞬で黒焦げどころか、跡形もなく消滅してしまうだろう。
最強の雷神たるタケミカヅチといえど、決して容易いものではなかった。
天御柱内部の凄まじい電圧に耐えつつも、冷静に落雷後の結果を予測していた。
(予定着雷地点よりも五十間(註:約90メートル)も弾道がズレているな……
到達した途端、社が雷で炎上し、天岩屋も損傷しかねない)
しかしながら彼はこの誤差も予測した上で、船の神トリフネに発射命令を下したのである。
(やはりこのまま降り立つのは危険だ。空中で軌道を変えるしかあるまい──)
タケミカヅチは高天原の『武』の象徴と誉れ高き軍神。
彼は恐るべき集中力で以て、天御柱が地表に到達する寸前の、僅かな一瞬で己が神力を集中させ、強力な雷を新たに発生させた。
火や雷とは、固体が液体、気体と変じて後、さらに上の段階で発生する電離体である。電離体は推進力に変換できる。
今タケミカヅチが行ったのは、黄泉の国でカグツチが炎の力を用いて飛行したのと原理的には余り変わらない。ただ指向性を変え、理想的な落雷地点へと移動するためのものだ。
しかしタケミカヅチとて、落雷の軌道を曲げるほどの雷ともなると相当の神力を消耗する。
「だが……予定していた着雷は行えそうだな」
タケミカヅチが落下する先には、おびただしい穢れの奔流が見えた。
「ふウウウウウウッッ……!!」
雷神は大きく息を吸い込み、己の右拳に雷の神力を纏わせ……禍神の只中へと叩き込んだ!
ドウッ────!!
熱。放電。穢れを浄化する凄まじい陽の気の作用により。
タケミカヅチ周辺、十間(註:約18メートル)の大地にいたヤソマガツヒの眷属は跡形もなく消失していた。
これでも軌道修正のため消耗した状態であり、周辺への被害を考慮し威力を抑制した一撃である。タケミカヅチの雷神としての実力が伺えよう。
その先を見やれば、天岩屋の丑寅の方角にいたオモイカネが、一心不乱に祝詞を唱えている。
最強の軍神による救援は、間一髪で間に合ったのだ。
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女月神となったツクヨミは、凄まじい速度で禍神の穢れを薙ぎ払いつつ、上空に漂う暗雲の異変に気づいた。
巨頭の禍神・オオマガツヒの鼻に当たる部分を、閃光が貫いたのだ。
ギイイイイイイイイ────!!!!
落雷によって中心に大穴が空き、オオマガツヒの苦悶の絶叫が一帯に響いた。
(あれはッ……トリフネの『天御柱』か。
さすがのオモイカネもこの状況では、タケミカヅチの助けを借りざるを得なかったという事か──)
視界を焼き尽くす雷の轟音の後、タケミカヅチの姿があった。
彼は仰々しく名乗りを上げた。
「──小官の名はタケミカヅチ。高天原守護軍神が筆頭なり!
穢れし禍神どもよ。いざ尋常に勝負ッ──!!」
スサノオは、寡黙な雷神の躍動的な登場に、興奮気味で叫んでいた。
「おおおお、俄然意気上がってくるじゃあねーか!
オレもあんな派手に登場して、敵をバッタバッタと一掃してえ!!」
二柱に負けじと、スサノオも高速で十拳剣を竜巻の如く振り回し、周囲の禍神は淡雪のように蹴散らされていく!
一騎当千の味方を得たに等しいツクヨミ達。百万の敵がたった三柱の英傑に侵攻を阻まれ、逆に押し返されんばかりである。
それも当然と言えた。高天原でも最強に近い風神スサノオ。雷神タケミカヅチ。そして──
「──タケミカヅチ殿。私はツクヨミ、女月神だ」
「……ツクヨミ様は、男神だと聞いていたが?」
「そうだな。私は男神でもあり──女神でもある。月には数多の貌があるからね。
汝はもっと慎重な男だと思っていたが、大胆な行動も取れるのか。
少し驚いたよ」
「命令を遂行するのに必要だったからやった。それだけだ」
憮然としたタケミカヅチに、ツクヨミは不敵な笑みを浮かべ、彼の背後から手を触れた。するとタケミカヅチの消耗していた神力がたちどころに復活し、肉体的な疲労も消し飛んでいた。
「…………ッ!?」
「今、汝の『時を戻した』。
ここに来るまでに随分と神力を使っていたようだから」
「これが月の神の……力。素晴らしい!
ツクヨミ様。貴女は百万の味方にも匹敵する女神だ!」
何とも堅物の軍神らしい賛辞だ。タヂカラオの実直さにも似ている。ツクヨミは心の中で苦笑した。
「その言葉、そっくりお返しするよ──タケミカヅチ殿。
私とスサノオだけじゃ、社を守り通せるか不安だったところだ」
「小官は命令に従ったに過ぎない。
礼を言うならば、上官たるオモイカネ様に言って欲しい」
さすがに軍神。タケミカヅチは冷静な態度のまま、ツクヨミの傍らを離れ戦場をひた走っていった。
風神と雷神に加え、月光と時間を操る女神の加護まであるのだ。これほど心強い神々もそうはいないだろう。
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ウズメの舞は当曲(註:舞楽の曲の中心となる部分)に入った。
これまでの流れで、彼女の舞神としての力は増し、ツクヨミの存在を認識した事で最大となった。
当曲に入る上で、これ以上最適な体調はないと言えるだろう。
速まる節奏。燃え上がる旋律。激しくなる舞踏。
ウズメは舞えば舞うほど、疲れるどころかいや増す陽の気を糧に、熱狂して踊り続けた。
激しく舞った結果、彼女の衣装は肩から脱げ、乳房どころか上半身が露になってしまっている。
居合わせる天津神、国津神共々、ウズメの神憑りの舞踊に自然と顔もほころび、その興奮度を上げていった。
(今、分かった気がする……『天衣無縫の極み』は、ひとつじゃない……!
黄泉の国で踊った時は、あたし独りで高みに達しようとした。それもまたひとつの形だけれど。
今は違う。皆の熱狂と陽の気で。子供が両手を伸ばして親の懐に飛び込むように、楽しい想像で……
目覚めしアマテラス様をお迎えするための、誰もが足を留め、目を奪われずにはいられないような。
一緒にその輪に入って踊りたくなるようなッ……
そんなもうひとつの『天衣無縫』を……!)
「楽しい」という言葉。元々は「手伸し」と書く。
子供が無邪気に両手を広げる様を表したものだ。
皆が楽しげに笑っている。ウズメもそれに釣られ、気分がさらに高揚する。
踊りもますます激しいものになっていき──
だが、すでに女陰の位置にまで脱げかかっていたウズメの衣装は、いつの間にか──地に落ちていた。
(えっ────)
ウズメは舞踏に夢中で全く気づかなかった。
激しく踊り続けたため、全身が火照っていた為もあった。
纏っていたはずの衣服が、すでに身体から離れていた。
熱狂していた神々も、この不測の事態に思わず息を飲み、沈黙していた。
健康的で均整の取れた美しき女神の肢体が、余す所なく衆目に晒されている。
周囲の様子に、ようやく自分の身に何が起こったのか、ウズメは気づいた。
(嘘、でしょ────うええええ!?)
ウズメは途端に羞恥心に見舞われ、激しく混乱した。
神々が沈黙していた為、踊りの動きも止まってしまった。
美しく舞い続けている限り、彼女は例え丸裸になろうとも成し遂げるつもりではあったが……動きの止まった今、ウズメは己の姿を単なる裸の女神としか認識できなかった。
このままでは不味い。宴の熱狂が損なわれ、せっかく集めた膨大な陽の気が霧散してしまうだろう。
(何か、何か方法は──ダメ、恥ずかしい。
こんな姿、皆に見られるなんてッ……!?)
ウズメは羞恥心の余り顔面を紅潮させてしまい、どうにか隠したいと思い──襷掛けしていた日蔭鬘に運よく引っかかっていたお面で顔を隠した。
それは、黄泉の国で彼女が作っていた──桃の木を使って彫った、オオゲツヒメの顔を見本にしたお多福の面であった。
(あ、しまった。ついこのお面を……)
丸顔で、鼻が低く、額は広く、頬が丸く豊かに張り出した、滑稽なお面。
混乱の極みにあったウズメは、一糸纏わぬ姿のまま、無我夢中で顔だけ隠したのである。
美しい女神の顔が、一瞬で下膨れの面相に変化してしまった衝撃と落差で、茫然としていた神々は──
あはははははははっっっっ!!!!
けたたましく大笑いした。
その笑い声は、葦原中国全土に木霊したのであった。
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アマテラスは意識を取り戻したものの、足取りは重く、ふらつきながら岩屋戸の傍にもたれかかった。
(何だろう……すごく騒がしい……何をやっているのかしら……?)
岩に耳を当て、じっとそばたてるアマテラス。
大勢の神が熱狂している。どうやら宴を催しているらしい。
(わたしが眠っている間に、お祭りの準備を進めていたのね……
あの声は、高天原の皆よね。わたしに何の報せもなく、勝手に催すなんて……)
ずっと意識を失っていたアマテラスは、当然ながら自分の目覚めのための宴だという事実を知らない。
喧騒を耳にしている内に、孤独に感じた彼女は、どうにかして宴の様子を見たいと思った。
岩屋の出入り口はこの岩戸しかなく、外に出るには岩を動かすしかなかった。
アマテラスがその事に気づいた時、外から凄まじい爆笑の大音声が響き渡った。
ちょうど、ウズメが全裸になった事に気づき、慌ててお多福の面を着けた直後である。
アマテラスはますます、外を覗きたい欲求に駆られた。
(何? 何がそんなに笑えるの? 外で一体何が起こったってのよ!?
もう! 何なのよこの岩! 邪魔だわッ──)
この岩屋戸、以前はタヂカラオの怪力によって塞がれ、意識を失ったアマテラスを外界の穢れから守るために置かれた代物である。
黄泉比良坂の大岩同様、動かすのに男手千人の力は必要と言われた天岩戸が。
宴で極限まで高まった陽の気と、アマテラスの持つ神力によって──ほんの少しだけ動いた。