三.布瑠(ふる)の言(こと)
「強ぬ 襲を 多 育め
交う悪 穢に去り──」
コヤネの祝詞が続き、音曲が滞りなく奏でられる中、ウズメは一心不乱に舞っていた。身体は動いている。むしろ最善の体調と言ってもいい。
舞っている間だけ、何かが掴めそうな感覚がよぎる。頭の中の記憶は無くとも、身体に叩き込まれ、記憶された動きが自然と身体を突き動かす。
はっきりとは分からない。ウズメは曖昧模糊たる気分に支配され、どうにか集中を乱さないよう舞い続けるのが精一杯だった。
ウズメの変調と、周囲に押し迫っている怪異の存在に気づいたのはタヂカラオであった。
(ウズメの奴、確かに舞は今んとこ完璧だが……何か迷いが見えるな。
肝心なところで思い切りが悪いっつーか……妙な感覚に足引っ張られて、集っている天津神たちの熱狂が冷めなきゃいいが……)
御幣越しの国津神らはともかくとして、実際に居合わせている三百柱の天津神らは、とうに百万の禍神どもの接近に気づいてもおかしくはなかった。
だが幸い、ウズメの舞に夢中で熱狂し、外部の穢れなど気にも留めていない。
宴によって膨れ上がった陽の気を集め、天岩屋で眠るアマテラスを目覚めさせるのが、オモイカネの立てた計画。
もし彼らが禍神に気づき、慌てふためいて逃げ惑えば一瞬でご破算である。
(……こうなる事を、オモイカネが予測しなかったハズがねえ。
どうする気でいたんだ? そもそもオモイカネの奴、姿が見えねえじゃねーか。
こんな肝心な時に、一体どこで何をやってんだよ……!)
タヂカラオが不安で苛立った、その時であった。
迫りくる百万の禍神たちの前に立ち塞がり、大立ち回りを繰り広げる二柱の姿が見えたのは。
(あれは……スサノオ。それにッ……ツクヨミ!?)
タヂカラオの視界にツクヨミの姿が映った途端、忘却していた黄泉の国の記憶が鮮明に蘇った。
そして今まで月の神を忘れていた事を忘れ去る。タヂカラオは何の違和感もなく二柱の活躍する様を受け入れていた。
「おいウズメ! 見ろッ!!」思わずタヂカラオは叫んだ。
その声が聞こえたのか、それとも舞っている際に偶然目に飛び込んだのか。
ウズメもまた、軽やかに神剣を振るい、禍神の群れ相手に大暴れするスサノオとツクヨミの姿を認識し、忘れていた記憶が蘇っていた。
(……思い出した! 『天衣無縫の極み』……!
何で忘れてたんだろう? 黄泉の国で黄泉醜女と戦った時に、ツクヨミちゃんの協力がきっかけで、初めて舞う事ができたのに……!)
ウズメはついに迷いを捨てた。あの時の記憶と動き。身体に刻み込まれた節奏と旋律。
あやふやでどうにも繋がらなかった天衣無縫の秘密が、肉体と精神がはっきりと結びつくのを体感した。
途端にウズメの動きはさらに洗練され、無駄なく激しく、高速なものへと変化していく。
それに引きずられるように、集う天津神らや国津神らの熱狂の度合いも高まり、更なる陽の気が膨れ上がった!
「辺天の 枡畦 ゑ掘れけ──」
(さすがはウズメ殿。最初は遅めの舞をじっくり見せて観客を引き込み、徐々に速度を上げていく事で皆をのめり込ませていく……!)
ウズメの変化は半分以上偶然であったが、やや興奮気味であったコヤネもまた、彼女の舞踏の推移を好意的に受け取っていた。
そして音曲を奏でる雅楽の神々に、ウズメの速度に合わせて曲調を変じるよう、素早く命じたのだった。
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一方、タヂカラオにも訝しまれていたオモイカネであるが。
彼は単身、天岩戸から丑寅(註:北東)の方角に立ち、独自の結界を張りながら祝詞を唱えていた。
丑寅の方角とは、日本の陰陽道において「鬼門」と呼ばれ、万事において不吉なものとして忌避される位置である。
しかしこの当時の高天原に陰陽道の知識はなく、オモイカネも鬼門を十分に把握している訳ではなかった。
何故なら、陰陽道の前身たる中国の宿曜道の風水においては、「鬼門」なる概念は存在しないからだ。
(我が父にして別天神たる、タカミムスビ様のお言葉とはいえ……奇妙な命令だ。
この時のために私に授けて下さった祝詞といい……何故タカミムスビ様は、この世界の神の誰も知り得ない知識を持っているのだ……?)
オモイカネは世界中の神々が持つ知識や記憶を収集する神力を持ち、その中から情報を瞬時に引き出す事ができる。
にも関わらず、タカミムスビが彼に与えた指示は、今まで得た知識の全てを探り寄せても、一度も聞いた事のないものであった。
疑念は尽きなかったが、父たるタカミムスビの命は彼にとって絶対だ。
タカミムスビが言うには「鬼門」は鬼の出入りする方角。鬼の力が最大に達すると同時に、下り坂に入る方角でもあるという。
つまり陰の気が陽の気に変じ、死と生が逆転する境界。それが鬼門。それ故に、鬼門にてアマテラス蘇生の儀式を行うのが最も効果的だというのである。
オモイカネは密かに、父から授かった祝詞……布瑠の言を唱えた。
「一二三四 五六七八 九十
布瑠部 由良由良止 布瑠部──」
布瑠の言。今日の我々が伝え聞く所では、大和国に降臨したニギハヤヒなる神がタカミムスビより授かったと言われる祝詞だ。
布瑠部とは瑞宝を振り動かす事。由良由良は玉の鳴り響く音を表す。
十種神宝を振りながら幾度も唱える事で、死者をも蘇らせるほどの力を得られるという。
(……いや、死者蘇生のための祝詞というのは、実は正確ではない。
確かにそれだけの強大な力を得られる祝詞だが……これは本来、皆の強き願いを形ある力に変えるためのものだ)
「一二三四 五六七八 九十
布瑠部 由良由良止 布瑠部──」
宴に集いし神々には申し伝えてある。この宴は天岩屋の中にいるアマテラスを「目覚めさせる」ための催しだと。
『アマテラス様を目覚めさせたいという想いを、宴によって高めた陽の気と共に、膨れ上がらせて欲しい。
皆の想いが、彼女の覚醒へと繋がり──重き岩屋戸は開かれる』
しかし今のオモイカネに、布瑠の言を十全に扱うための神宝は揃っていない。
それらが天孫の証たる天津瑞として高天原にもたらされるのは、ずっと後の時代になってからの事だ。
その為、言霊を唱えるたびにオモイカネの神力は目に見えて消耗していく。
それでも唱え続けなければならなかった。
長鳴鳥の声で彼女の意識がこちらに留まっている内に。
ウズメの舞によって強まった神々の陽の気が、眠ったままのアマテラスの肉体を揺り動かす力を保っている間に。
「一二三四 五六七八 九十
布瑠部 由良由良止 布瑠部──」
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スサノオとツクヨミは、互いに縦横無尽に疾走し、神剣を振るい禍神たちを圧倒していた。
次から次へと押し寄せる穢れに満ちた濁流。
常識で考えれば、たったの二柱で防ぎ切れるものではない。
しかし神力を完全なものとし、ツクヨミの持つ「時駆け」により加速能力を付与された彼らはそれを可能としていた。
宴の社を蹂躙しようと近づく悪神の顔を的確に叩き潰し、驚くべき速さで次々と浄化していく。
三貴子として持つ、底知れぬ体力と気力、何より神力の強さは主神アマテラスに匹敵するのである。
加えて疲労する頃合いを見計らい、ツクヨミが「時戻し」にて元の状態に戻す。
これらを繰り返す事でスサノオ・ツクヨミ共々、疲れ知らずで無双する事が可能なのであった。
「……あいつら。神力が十分なら、あんなに強かったのかよ……」
岩屋戸前に待機していたタヂカラオは、八面六臂の活躍を繰り広げるツクヨミ達を見て、自分も大暴れしたい衝動に駆られたが……
オモイカネに命じられた役割を放棄する訳にも行かなかった。
今は辛抱強く、岩屋の中のアマテラスの様子を伺わなければならない。
──とくん。
天岩屋から、微かな鼓動のようなものが聞こえた。
あの『魂』を奪われた日以来、意識を失ったままずっと昏睡状態に陥っていた、太陽神アマテラス。
彼女の眠っていた意識は、長鳴鳥のけたたましい鳴き声によって、僅かに目覚めていた。
(……ここは、どこ……? ずいぶんと長い間、悪い夢の中にいたような……
世界が暗くなって……ずっと独りぼっちで……泣き腫らしていたような……
本当に、ひどい夢……)
アマテラスは目覚めたばかりで、未だに夢心地の気分のまま、ゆっくりと岩屋の寝台から身を起こした。
彼女の中に本来の『魂』は戻っておらず、魂魄の均衡は非常に危うい。頭重感が酷く、ともすれば再び気を失いそうになってしまう。
だがそれでも、宴の目的の第一段階であるアマテラスの覚醒は今ここに成った。




