二.舞踏会(ダンス・パーティ)始まる
天岩戸の前にて、宴を催す日がやってきた。
ウズメが踊るための無数の桶。
アマテラスを模し、沢山の勾玉と鏡を身に着けた榊の木で作った女神像。
そして宴席のためにしつらえた、およそ三百の客席。
これらは八百万の神々の中でも、特に高天原にて地位の高い天津神のために用意されたものだ。
他、フトダマが作成した数多くの御幣が、社の中に所狭しと設置されている。
これらはオモイカネの神力と連動する仕組みで、葦原中国に散らばる国津神のための設備である。
宴の開始と共にその様子を映像と音声を交えて中継できる上、遠く離れた神々の熱狂を陽の気に変換する力も備えている。
アマテラスを模した女神像の胸元の部分に、スサノオ達が取り戻したアマテラスの『魂』たる鏡をぶら下げる。
岩屋戸が開いた時、アマテラスから見える位置にその都度調整するため、コヤネとフトダマが像の両隣に立った。
その岩屋戸の前には、タヂカラオがいる。
アマテラスが目覚めた際、いつでも彼女を外に連れ出せるよう待機していた。
すでに社には、今回の為に招かれた三百の天津神たちが顔を揃え、始まりを今か今かと待ちわびていた。
天岩戸の舞台裏となる岩陰には、今回の音曲を披露する雅楽の神々。コヤネ達のいる位置から、いつでも指示を出せる場所だ。
ツクヨミが連れてきた常世の長鳴鳥たち。
そして、今回の宴の中心的役割を担う、舞の女神ウズメ。
彼女はフトダマ達が天香久山から持ち帰った日蔭鬘を襷のように身体に巻き、真拆葛を髪飾りに、さらには両手に笹の葉を束ねて持っていた。
ヒカゲカズラはシダ植物の一種で、乾燥させても緑をよく保つ特徴があり、紐状の飾りとしても加工しやすい。
マサキカズラは現代ではテイカカズラと呼ばれ、香しい白い花を咲かせる。
笹の葉は古くから七夕の飾りとしても扱われ、葉には防腐作用もあり、保存食を包むのに用いられた。
これらの植物はフトダマの太占によって、榊と共に持ち帰るよう告げられたものである。
「……ウズメ。緊張していますか?」
オモイカネがふと、微動だにしないウズメに尋ねた。
「心配しなくていいわよ、オモイカネちゃん」ウズメは明るく答えた。
「これだけの大舞台だもの。緊張しない方がおかしいと思うんだけど……
何でかな? すっごく心が躍るの。踊りたくてウズウズしてるって言うか」
この日の為に、ウズメは練習に練習を重ねてきた。
大陸で舞踏の神に教わった秘儀に、己の調整を加え続け、洗練し、理想的な形に仕上げるために。
(師匠の言う『天衣無縫の極み』はまだ見えない。
でも、行ける所まで登りつめたい──)
アマテラスの復活の為ではあったが、ウズメは舞神として、最高の舞を踊る。
ただそれだけに集中するつもりだった。
「では予定の時間も間近ですし、そろそろ始めようと思います。
長鳴鳥たちの一斉の鳴き声が合図です。皆さん、頼みましたよ!」
『おうッッッッ!!!!』
オモイカネの言葉に、ウズメ、タヂカラオ、コヤネ、フトダマの四柱は気合いを込めた大声を返した。
常世の長鳴鳥たちは、奇妙な事に誰からの指示を受けた訳でもなく。
まさに今この時。運命であるかのように。本能の赴くまま。
一斉にけたたましく鳴いた。凄まじい騒音!
それは今日我々の知る、朝を告げる鶏の鳴き声である。
コケコッコーーーー!!!!
数が多いため、たっぷり一分(註:約3~5分)は騒々しい鳴き声が続いた。
長鳴鳥たちの声が途絶えると同時に、ウズメが意を決して、並べられた桶の舞台の上に立ち、舞い始めた。
それを見たコヤネが、雅楽の神々に音曲を開始するよう指示を出し、自らは朗々たる美声で一二三祝詞を唱えた。
「一二三四 五六七八 九十百千万
蘭根 敷き 縷結い──」
楽曲と祝詞の調子に合わせ、ウズメは一心不乱に舞った。
だがすぐに彼女は気づいた。不完全だ。練習を重ねた舞の動きそのものは完璧に近い。
ウズメの美しい舞と、踊るたびに揺れ動く飾り。激しく響く桶を踏み鳴らす音。彼女の胸元はすでにはだけかかっており、踊りの激しさを物語っている。
彼女の舞に引き込まれた天津神らは早くも熱狂の色を見せ、興奮状態になりつつあったが。
ウズメは激しく踊り続けながらも、心が平らかに沈んでいくのを感じた。
(なんだろう……何かが足りない気がする。皆は喜んでくれているけれど……
いまいち乗り切れない。いつか感じた時のような、恍惚の極みに昇りつめられる予感がしない……)
その「いつか感じた時」が何なのか、ウズメはまるで思い出せなかった。それがもどかしかった。
それもその筈。彼女が達しようとした「天衣無縫の極み」への足がかりは、黄泉の国でのツクヨミとの旅の中にあったのだから。
今のウズメには、ツクヨミと別れてからその記憶が消失している。
違和感を覚えるのも無理からぬ事であった。
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アマテラス復活の宴に、八百万の神々が集ったが、決して歓迎すべき善神ばかりではなかった。
前日のオモイカネの懸念通り、大勢の神々の盛大な催しによる陽の気の高まりに気づき、穢れに満ちた禍神どももまた、誘蛾灯に群がる羽虫のように寄り集まってきていたのである。
空を覆い尽くす暗雲は、不吉に唸るような音を立て、禍々しくも不気味な雰囲気を漂わせていた。
すさまじく大きな、恐ろしい顔のようにも見え……というのは、比喩でも何でもなかった。
実際、巨大な顔であった。苦悶の表情を浮かべ、目の部分から黒く汚らしい、泥のような涙が絶えず滴り落ちている。
ドス黒い泥土の涙は、ボトボトと地面に落ち、穢らわしい染みとなり……意思を持っているかのように蠢いた。
泥の動きには指向性があり、宴の社へと這い寄っていくのが分かる。泥の中には無数の醜悪な顔が浮かんでは沈んでいく。
泥土の無数の顔は、数多くの災いを司る多頭の神、ヤソマガツヒ。
空を覆う暗雲に浮かぶ顔は、大いなる災いを司る巨頭の神、オオマガツヒ。
彼ら禍神の首魁たる兄弟神は、本能のままに全てを飲み込もうと動いていた。
恐るべき力を持つ禍神らの襲来を、迎え撃つべく現れた二つの影があった。
ひとつは輝く顔を持ち、紫色の闇の御衣を纏った、月の神ツクヨミ。
もうひとつは、少年でありながら鬼神の如き気迫を持つ、暴風の神スサノオ。
アマテラスと同じ、特に尊く強い神力を備えた三貴子のうちの二柱。
奇しくも彼らも兄弟神である。
「おー……オモイカネの言った通りになったな。すげェ数だ。百万柱くらいいるんじゃねーの?」
地平線を埋め尽くすほどの泥土が迫りくるのを見て、スサノオが軽口を叩いた。
新調した十拳剣を手にする彼は、不思議と楽しそうであった。
「……さすがにそれは盛り過ぎだと思うよ、スサノオ。
しかしとんでもない数と穢れに膨れ上がっているね。
私たち二柱だけで、果たしてどこまで捌き切れるか──」
ツクヨミが言った。言葉こそ不安げだが、彼もまた不思議と気持ちが弾んでいる様子だった。
そう。復活の宴に捧げる十分な陽の気を確保するため、宴の防衛に割ける戦力の余裕は、今の高天原にはない。
禍神たちの侵攻を防ぐために動けるのは、ツクヨミとスサノオだけなのだ。
「決まってんだろツクヨミ!
宴が成功し、姉上が目覚めて完全復活するまでさ!」
スサノオがさも当然とばかりに、力強く言った。
「黄泉の国の時と違い、今のオレたちの魂魄と神力は十全に回復してる。
心置きなく派手に暴れられるってモンだぜ」
ツクヨミは昨日、長鳴鳥を引き連れた後スサノオと合流し、交換していた魂魄の半分を元通りに戻していた。
「ま、宴席を吹き飛ばしちゃいけねーから、広範囲を巻き込むような風は使えねーのが残念だけどよ。
黄泉の国で、母上と相対した時に比べたら……こんな程度、絶望のうちにも入らねえよ!」
(ハッパをかけるにしても、いくら何でも楽観視しすぎだろう、スサノオ……
でも何故かな……スサノオの言葉を聞いてると、全然絶望する気がしない。
百万柱の禍神が相手だろうが、何とかなるという気持ちになるよ)
「……そうだね、スサノオ」ツクヨミも微笑んで、彼の言葉に同意した。
「こんな状況でも、何かを守って戦えるというのは、誇らしく心が躍る。
これがウズメの言っていた、『楽しむ』っていう事なのかも知れないね」
「分かってきてんじゃねーか、ツクヨミ!」
スサノオはすでに臨戦態勢だった。ツクヨミもまた、黒い十拳剣を抜く。
「ウズメちゃんの宴に招待されなくて、拗ねてんだろ? 禍神ども!
心配いらねえよ。
オレたちはオレたちで、ここで楽しく舞踏会と行こうぜッ!」