一.宴の前夜
ここは天上世界、高天原。
スサノオ、タヂカラオ、ウズメらがアマテラスの鏡を黄泉の国から持ち帰るための旅をしている間、この高天原でもアマテラスを岩屋戸から復活させるための準備が着々と整いつつあった。
アマテラス復活の宴。その陣頭指揮を執るのは、知識の神オモイカネである。
オモイカネら高天原の天津神たちも、スサノオ達ほど危険ではないにせよ、時間と労力のかかる作業を辛抱強く行っていた。
祝詞の達神たる浄化の専門家コヤネと、太占を得意とする占い師の神フトダマ。
彼らはそれぞれ社の設営と、御幣の作成をこなした後、はるばる遠く大和国の天香久山まで赴き、アマテラスを模した女神像を作るための榊の木を根こそぎ掘り起こしてきたのだ。
「オモイカネ様……運んできましたよッ!」
コヤネとフトダマの二柱はどうにか高天原に戻ってきたが、彼らの消耗っぷりは凄まじいものがあった。
「二柱とも、お帰り。……随分やつれたね」
オモイカネは涼しげな顔をしてコヤネ達を出迎えた。
「そりゃもう、やつれるに決まってるでしょうがッ!」
フトダマが非難がましい声を上げた。
「目的地が遠い上に、わざわざワタシは、最善の状態の榊を厳選するために、現地で太占までしてきたんですよ!
しかも野生の牡鹿を捕まえて、肩骨を抜き取る所から開始したってのに!
ロクな食糧もない中、これだけの重労働をやり遂げたンです。もっと褒めていいのよ?」
太占は世界最古の占いであり、鹿の肩甲骨を上溝桜の樹皮で包んで炭火で焼き、骨の割れ目で吉凶を占うという……要するに黄泉の国でツクヨミがやっていたものと同じである。
「原木のまま持ち帰ると普通に重労働なので、あらかじめ向こうで木彫りの職神を探し、アマテラス様の像に加工しておきました」とはコヤネの言。
運び込まれた神像は素晴らしい出来栄えであり、確かにアマテラスの美しい姿をほぼ再現していると言えた。
この二柱、役割担当はいかにも室内作業なのだが……オモイカネが長旅を命じただけあり、実はそれなりに戦いをこなす事もできた。
念のため護衛の武神たちを同行させたが、道中の悪神との戦いによって何柱もの神が犠牲となった。
そんな危険な旅路の中、コヤネもフトダマも何とか指示を達成して生きて戻って来たのだから、僥倖というものだろう。
「……確かに良い仕事をしている。よくやってくれた、コヤネ。フトダマ──」
オモイカネの褒め言葉に、二柱は労苦が報われたと顔をほころばせた。が……
「──早速次の仕事を行ってもらおう。
コヤネはウズメと相談の上、彼女の舞に相応しい祝詞と音曲の制作。
そしてフトダマはアマテラス様が岩屋戸から出た時の為、結界用の注連縄の作成を頼むよ」
オモイカネがさらに続けた言葉は、無慈悲にも次なる重労働の指令であった。
「長旅で疲れている所申し訳ないが、なるべく急いで欲しい。
今は並行して、鍛冶の神々に神像を飾り付けるための鏡と勾玉を大量に作らせている所でね。
それらの作業が終わる頃に合わせられるよう、取り掛かってくれ」
準備作業に携わる神々は不眠不休で働かされ、暗雲漂う中であるため満足な食事も摂れず、日に日に強い不満がつのっていったが。
オモイカネの指揮は、神々の感情を度外視すれば実に的確なものだった。
復活祭の準備は順調に進み、決行日たる前日にはお膳立てが整ったのである。
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宴の前夜。
オモイカネは宴の舞台となる天岩戸を訪れていた。
岩戸の前には、宴の会場とも言うべき社が設置されている。
特に目を引くのは、岩屋の前に数多く並べられた桧の桶と、勾玉や鏡で飾り立てられた女神像であろう。
桶と女神像の周辺には、宴当日に集まる国津神の数だけ用意した御幣が所狭しと立てられている。
当日はオモイカネの神力により、御幣に八百万の神々の『魂』を呼び寄せる手筈となっている。
無数の桶は、当日舞を披露する事になっているウズメの為の舞台である。
そして女神像は、目覚めしアマテラスを外へと誘導するための偽造品として使用する。
(……これで準備は整った。天安川の会議にて選出された課題は、達成されたと言えるだろう。
スサノオ様たちが黄泉の国より取り戻してきた、アマテラス様の魂たる『鏡』も、女神像に身につけさせている)
「後は『彼』の到着を待つばかり、ですか。
事前の取り決めでは、この時間に会う予定の筈ですが──」
オモイカネはわざとらしく独りごち、夜空を見上げた。
暗雲にやや隠れてはいるものの、朧月夜がぼんやり輝いているのが見える。
やがて雲が晴れた。
と同時に、月から一条の光がオモイカネの傍らに差し込み──その光に乗って、無数の影がやってくるのが見えた。
月の神ツクヨミと、彼の導きによって常世国で今まで安らいでいた、長鳴鳥達である。
「お待ち申し上げておりました、ツクヨミ様。
あらかじめ取り決めた時間通りですね。
もっとも『月日を読む』貴方が、時間に正確なのは当然といった所でしょうか」
数多の常世の長鳴鳥を引き連れてきた月の神ツクヨミに対し、オモイカネは一礼した。
長鳴鳥たちはアマテラス復活の宴の際、仮死状態にある彼女の意識を揺さぶり、目覚めさせるために最初に必要な「最適解」のひとつである。
「オモイカネ殿。お久しゅう」ツクヨミもまた一礼した。
「いよいよ明日が、姉アマテラスの岩屋戸を開くための宴の日。
見る限り、宴のための準備は順調のようですね。何よりです」
ツクヨミの言葉に、オモイカネはやや沈んだ面持ちで答えた。
「確かに事前準備は整いました。
作業に携わる神々にも、無理を承知で強行軍をさせた上で間に合わせました。
明日の宴、絶対に成功させなければなりません。そこで──」
オモイカネは一旦言葉を切り……躊躇いがちに続けた。
「ツクヨミ様には、幾つか協力していただきたい事がございます」
「協力、ですか」
「ええ。宴を催す折、必ずといっていいほど懸念される事がありまして……」
空を見上げるオモイカネ。
幾分厚さは減じたものの、上空には未だに暗雲が漂っており、不気味な雰囲気を醸し出している。
「タヂカラオ達の報告では、この件に関して黄泉の勢力は手を引いたそうですね。
ですが……未だに世界を覆う闇は晴れない。これはどういう事か──」
「ええ。確かに我が母、黄泉の女王イザナミは、もうこの件には関わって来ない」とツクヨミ。
「しかしこの暗雲を形作っているのは黄泉の神々ではない。だからでしょう」
黄泉の勢力は、阿蘇山を噴火させ暗雲で空を覆った後、地上に蔓延る禍神たちと接触し、協力関係を築いた。
イザナギが禊の時、最初に産んだ二柱の禍神。全ての悪神たちの首魁。
ヤソマガツヒとオオマガツヒである。
「黄泉が手を引いても、姉アマテラスが目覚めぬ限り。
彼らは暗雲を保ち続けるでしょう。現状が続く限り、穢れが発生しやすい、彼らにとって絶好の環境のままな訳ですし」
「そうでしょうね……」オモイカネは悔しげに声を震わせた。
「ツクヨミ様たちが黄泉の国に赴いている間、我々も宴の準備を進めていました。
特に被害が大きかったのが、大和国へ榊の木を入手しに向かったコヤネ達です。
道中、度重なる悪神の襲撃に遭い、同行していた天津神たちの多くが命を奪われました」
オモイカネの言葉の意味する所は、すなわち。
明日のアマテラス復活の宴に、高確率で禍神の妨害が入るであろう事を示唆している。
「彼らは明日の宴、間違いなく手勢を率いてやって来るでしょう。
しかし彼らに対抗できるような、腕の立つ天津神の戦力は乏しい。
タヂカラオにウズメ、コヤネとフトダマには、宴の進行に中心的な役割を担って貰わなければならず、防衛に動く事はできない。
タケミカヅチらには留守居の高天原の警護の任務があり、やはり戦力とする事は不可能です」
かといって、これ以上宴の日取りを先延ばしにする訳にも行かない。
こうしている間にも葦原中国は闇と、緩慢な死に覆われつつあるのだから。
「つまり禍神たちの襲撃に備えるためには……立場上は宴に参加する事ができず、なおかつ腕の立つ神の助力が必要だと。そういう訳ですか」
ツクヨミの言葉を継ぎ、オモイカネは頷いた。
宴に集う八百万の神々も、陽の気を高めるという重要な役割を担っている。
実質的に、禍神から宴を防衛する為に動けるのは、ツクヨミとスサノオぐらいという事になる。
なおスサノオは、高天原帰還後は軟禁状態に戻っている。
「おっしゃる通りです。それともうひとつ。
これは私個人の見解であり、憶測なのですが……
ツクヨミ様やスサノオ様にとって、将来的に重大な懸念があるのです」
オモイカネは脂汗をかき、躊躇っていたが──やがて意を決して、二つ目の懸念をツクヨミに告げた。
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そして翌日──宴が始まる時が来た。




