二十二.失われるもの
それは唐突に起きた。
黄泉の国の旅の帰路を半ば引き返していた時。
ツクヨミの首に三つの大きな傷口ができ、その場にどうと倒れてしまった。
雷地獄に囚われた折、黄泉醜女に負わされた傷が再び開いたのだ。
「なッ……おい、ツクヨミッ!?」
突然の惨劇に、スサノオは駆け寄る暇もなかった。
「済まない……私の『時戻し』も……力が失われた……」
消え入りそうな声でツクヨミは詫びた。
「オオカムズミの……いる、黄泉比良坂まで……保つと、思ったんだが……
母に施した……『時戻し』……思いのほか、消耗……し……」
「馬鹿野郎、何でそれをもっと早く言わねえんだ!?」
助け起こしたスサノオの手の中で、ツクヨミの持つ神力と魂魄は急速に薄れつつあった。
黒い勾玉に変化すれば、傷口の出血程度は抑えられる筈だが、どうやらその余力もないらしい。
「誰かッ……オオカムズミの桃の実を……!」
スサノオは悲痛な声を上げ、仲間たちを縋るように見た。生者に癒しを与える桃の実の力であれば、この手酷い傷もたちどころに塞がるだろう。ところが……
タヂカラオも、ウズメも、ウケモチも。一様に首を横に振った。
一行が桃木の女神オオカムズミから授かった桃の実は全部で六つ。
しかし激闘に次ぐ激闘の中、その全てを使い切ってしまっていた。
「……何、心配は要らないさ……夜之食国に……
我が魂魄は……もう半分……残っている……
スサノオ……お前の……半分の、魂魄と共に……」
「そうかもしれねえけどッ! じゃあ何か!?
全部片付いた後、お前はこれからその半分だけの力でやっていくつもりかよ?
出来るのか? これから先も、夜之食国を治め続けられるのかよッ!?」
「……はは、正直に言って……厳しいものが……あるね……」
ツクヨミは息も絶え絶えになりながらも、苦笑してみせた。
「……でも何とか、やってみせるさ……
この結末も……私の驕りが招いた……事なのだから」
「──ツクヨミ様」
ツクヨミの自嘲気味の言葉を遮ったのは、オオゲツヒメだった。
「わたくしは反対します。
貴方様ほどの尊い神の屍を、黄泉の国に置き去りにすれば。
どんな恐ろしい穢れが憑りついて、強力な悪神が生まれるか。
分かったものじゃありませんもの」
オオゲツヒメは自然に、スサノオを押しのけ、ツクヨミの口に手を差し伸べた。
「それに、桃の実はあります。ここに──」
「オオゲツヒメ! 何でそれをもっと早く言わねえんだよッ」
スサノオが非難がましく声を荒げる。
「申し訳ありませぬ、スサノオ様。
良い出来栄えだったので、差し出すのが少々、惜しくなってしまいまして」
オオゲツヒメは微笑みながら詫び、口から白い光が漏れ──桃の実の形となって現れた。
彼女の体内にある「土」から成長した桃の木に成った、新鮮な桃の実である。
「オオゲツ、お前それは──」
ウケモチが何か言いかけたのを、オオゲツヒメは口に人差し指を当て、遮った。
「何にせよ、それでツクヨミは助かるんだな!?」
「ええ。心配いりませんわ、スサノオ様」
オオゲツヒメの神力によって、桃の実から抽出された陽の気がツクヨミの首の傷を瞬く間に癒した。
結果として、ツクヨミの負った傷は全て塞がり、一命を取り留めた。
ツクヨミは魂魄の半分を失わずに済んだのだ。
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黄泉の国を脱出した六柱と、ウケモチの桃弓と葦矢に宿りし二柱。
彼らは黄泉の国にて憑いた穢れを祓うべく、禊をほど近い川にて行った。
「あれ……? そういえば、オレが産んだ女神……キクリヒメは……?」
スサノオは不思議そうに辺りを見回したが、物言わぬ女神の姿はいつの間にか、忽然と消えていた。
「彼女は……元の住処に帰ったよ」ツクヨミが言った。
「キクリヒメは元来、神や人の抱く想いによって招かれ、形を成す神だからね」
そしてその真実を知る者も、ツクヨミを除けば存在しない。
彼女は己の力を誇示する事も、語る事もない。
ただ幸せな「想い」を映す、鏡のような概念だからだ。
禊によって祓われた事により生まれた悪神たちは、ツクヨミが引き取った。
「荒ぶる事なく、安らぎを得たければ……我が夜之食国に来るといい」
ツクヨミのその言葉だけで、彼らは驚くほど従順に鎮まり、彼の闇の御衣の中に身を委ねていった。
こうして無事に禊を済ませた一行は、帰還する事になる。
途中、オオゲツヒメとウケモチは粟国へと。
そしてツクヨミも、夜之食国へ帰る事になった。
「この度は、大変よろしゅうございました。皆様……どうか帰りもお健やかに」
オオゲツヒメは深々と頭を下げ、皆に帰路分の食糧を配りながら労った。
ウケモチは言葉を発さなかったが、オオゲツヒメの出した食糧をいそいそと皆に分配する。
彼の従える双子神モモユミヒメ・アシヤヒコの二柱も嬉々として、食糧を配るのを手伝っていた。
「色々と厳しい事もあったけどよ」タヂカラオは笑顔を見せて言った。
「えーと、その、なんだ……ウズメ。お前が言ってたよな?
こういう時の、気分が弾んだ状態ってヤツを表す言葉……何だっけ?」
「『楽しい』よ。タヂカラオ」
ウズメはずいと、偉丈夫の男神に顔を近づけて言った。
「あたしも、楽しかったわ。ツクヨミちゃん。オオゲツちゃん。ウケモチくん。
それに可愛らしい双子神ちゃんたちも!
皆と一緒に旅した事、きっと忘れない……」
「……またな。みんな」
スサノオの別れの言葉は単純だった。
ここまでならば、ごく普通の大団円と言えるものだった。
しかし古事記にも日本書紀にも、彼らの黄泉の国での冒険は記されていない。
タヂカラオとウズメは、スサノオと共に高天原へと帰還する事になるが。
その頃には二柱は、ツクヨミと命懸けで旅した記憶を、全て忘れ去ってしまっていた。
(第四章 激闘の果て 了)




