二十一.決着
「……これは、一体……この姿はッ……!」
己の姿に驚いたのはイザナミだけではなかった。
その場にいたタヂカラオ、ウズメ、オオゲツヒメ、ウケモチもまた……突如出現した神々しくも美しい、国産みの女神の姿に心奪われていた。
「……母上の願いと、父上の記憶を元に。
このツクヨミが……貴女の『時を戻した』のですよ、我が母イザナミ」
響いたのは、月の神ツクヨミの声。
いつの間にか彼は闇の御衣を纏い、物言わぬ女神の傍に降り立っていた。
この場にいる神々は知る由もないが、すでに男神の姿に戻っており、負傷さえも見当たらない。
「この女神の名は……キクリヒメ」
ツクヨミは女神の手に触れ、彼女の名を記憶から読み取って答えた。
「アマテラスの気と、スサノオの意思と、イザナミの血から再び生まれた……想いを紡ぐ女神」
キクリヒメ。古事記にその記述はなく、日本書紀においてわずかに登場する女神である。
イザナギはイザナミと黄泉にて喧嘩をした際、彼女の言葉に大いに感心して黄泉の国を後にしたという。
彼女がいかなる言葉を語ったのかは記録にないが、この逸話により縁結びの神として伝わっている。
「ツクヨミ、そなたの仕業かッ……愚かな事を!」イザナミは声を荒げた。
「吾を生前の姿にまで『時戻す』などッ!
いかにそなたの神力でも、どれだけ激しく消耗すると思うておるのじゃ!?
今すぐにでも、このまやかしを解くがよい!」
「母上……このツクヨミとて、自分ひとりの力でこれほど強い『時戻し』をかける事は叶いません」
ツクヨミは穏やかに言った。
(私のこの力は、今この時のために、授けて下さったのですか?
我が父イザナギ……)
ツクヨミは困惑するイザナミの瞳を見据えた。
『母上……聞こえますか?』
ツクヨミの発した新たな声に、周りの神々は誰も気づいていない。
それはイザナミにのみ通じていた。
『なッ……ツクヨミ。そなた、この会話をどうやって……?』
『時を戻すため触れた時、母上の記憶も読んだのです。
貴女は大雷の糸を使って、密かに連携を取っていた』
ツクヨミの手には、大雷の張った糸が握られていた。
仮に糸を持っていたとしても、これを使って意思疎通を行うにはそれなりのコツが要る。
だがツクヨミの「記憶を読む」力によって、瞬時にそれも理解したのだろう。
『母上、これ以上の戦いは無益です。スサノオ達を解放してやって下さい』
『……解放せぬと言ったら?』
『私は貴女の記憶を読んだ、と言った筈です。
私が拆雷を退け、彼の支配する地獄を崩壊させた事も貴女は知っている。
だが……私がどうやって彼らを退けたか、貴女は把握できていない』
『!』
『貴女が黄泉の国の情報として把握できるのは、五感に関連するもののみ。
それ以外の攻撃手段の情報は得られない。
故に私の未知の力に、対処する事は不可能だ』
ツクヨミの言葉に、イザナミの返事はなかった。沈黙は肯定を意味していた。
『拆雷たちを発狂させた力は、非常に危険な代物。
扱い方を誤れば、私自身もまた破滅しかねない。
でもこれ以上戦い続けるというなら。スサノオ達を傷つけようというなら。
私は躊躇わない。もう一度この場で、切り札として使わせて貰う』
無論使用すれば、スサノオ達にも影響を及ぼしかねない、諸刃の剣なのだが。
ツクヨミの毅然とした態度は、覚悟の現れでもあった。
イザナミの心に恐怖が芽生えているのをツクヨミは感じた。だが不十分だ。
それにツクヨミも、イザナギとイザナミの子。ただ母を脅すだけの説得はしたくなかった。
『……でもこれは、あくまでも最後の手段ですよ。母上。
私もスサノオと同様に、本当は心優しい母上を信じたい。
恐らくこれが、和解する最後の機会でしょう。
母上、どうか……スサノオや私の想いを、尊重してやって下さい』
『…………』イザナミの心は激しく揺れ動いていた。
『私は父イザナギの記憶も読み取りました。だから分かるんです。
今でも父は──妻たる貴女を深く愛している。
私の時戻しによる母上の姿こそ、何よりの証。
貴女の今の神々しくも美しき姿は、父イザナギの愛情の現れなのです──』
「なん…………じゃと…………」
いつしかイザナミの瞳から──涙が一滴、頬を伝わった。
荒ぶっていたイザナミの魂は自然と鎮まり、久しく忘れていた清々しい気持ちになっていた。
彼女から溢れ出る神力に、黄泉の国に漂う穢れは一目散に逃げ出していった。
傍で倒れていたスサノオに憑いていた穢れもまた、洗い流され……スサノオはうっすらと目を開けた。
「……母上、すげェ……綺麗だ……」
「スサノオ……しっかりするのじゃ、気を確かに持てッ」
イザナミは自然と体が動き、スサノオを助け起こしていた。
傷ついた子を母親が助ける事に、理由など必要なかった。
「……やっぱり、信じて良かった……
母上は、オレの思っていた通り、色々教えてくれる、優しい母上だった……」
「分かった、もうよい! 吾の負けじゃ。
吾は……そなたらが死して腐り落ちる姿を見るなど、耐えられぬッ……!」
ツクヨミも、スサノオも。そしてアマテラスでさえも。イザナミは直接産んだ訳ではなく、真に親子の情念を抱く事はないだろうと思っていたが。
しかし今、目に映る彼らの顔には、かつての夫イザナギの愛おしい面影が色濃く残されていた。
(こうして、命ある姿で子に触れられる日が来ようとはのう……)
だがこれは、ツクヨミの神力による一瞬の出来事。
永遠ではない。過去は戻らない。
キクリヒメの語る「思い出」が教えてくれたのは、そういう事だったのだ。
恐らくはかつて、イザナギに対しても同じ事を……
「…………大雷」
「……は、はい。大神……さま」
大雷は名を呼ばれ返事はしたが、美しき清らかな女神の姿となったイザナミに、戸惑いを隠せぬ様子だった。
「そなたの戒めを解け。スサノオ達の邪魔立てはもう、やめじゃ」
「……本当に、よろしいのですか?」
「二度は言わぬぞ」
「……はいィ。畏まりました、大神さま」
蜘蛛の姿をした雷神は、直ちにイザナミの命に従い、タヂカラオらを縛っていた糸を解いて、地に潜って消え失せた。
「……ありがとう、母上」
「勘違いするでないぞ。そなたらやイザナギを許した訳では決してない。
そなたは誓約に勝った。負けた側が従うのは、当然の事じゃからな」
スサノオのまっすぐな視線に、イザナミは顔を背けてしまった。
「それでも、ありがとう。姉上を返してくれて。皆を助けてくれて」
「……これ以上、繰り言を述べるでない。
吾の気が変わらぬうちに、早々にこの黄泉の国を立ち去るがよい!」
決して情愛にほだされただけではない。
ツクヨミの脅迫を交えた懇願も、彼女を和解に踏み切らせた大きな要因だろう。
(今更こんな事をしたところで、吾が犯した、多くの命を奪い去った罪が消える訳ではないが。
子であるスサノオがそれを望み、然るべき証を立てたのじゃ。
それに従わぬ道理はない。
ツクヨミも、スサノオも。子はいつの間にか、成長するものなのじゃな……)
結局、イザナミの願いは叶わなかったが。
喜びを分かち合うツクヨミ達を、彼女は朗らかな気持ちで見守っていた。
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イザナミとの和解を経て、アマテラスの魂を取り戻し、黄泉の国を後にするツクヨミ達。
その帰路は、順調であるかに見えた。




