二十.国産みの記憶
スサノオはイザナミの穢れを受け、血を流し倒れたが……己の十拳剣の刃の破片から、神を産む事には成功していた。
生まれたばかりとは思えぬほど、神々しい雰囲気を持つ穏やかな表情をした女神である。
「ほう……スサノオの産んだ女神かや。これはこれは……」
(あれだけの悪条件の中、かような美しき神を産めるとはのう。
少なくとも、黄泉の穢れに侵された悪神の類ではない……)
イザナミは少々面倒な事になったと思った。
この女神がスサノオの言った通りの善神ならば、誓約に従い負けを認めなければならなくなってしまう。
(力を発揮する前に取り殺してしまうべきか?
いや、さすがにそのような横紙破りは許されぬ……)
「そなた……名はなんと申す? いかなる力を秘め、産まれたのじゃ?」
イザナミは女神に尋ねた。が……
女神は何も答えなかった。ただ、ニコリと微笑み返すのみ。
「今一度問うぞ。そなたの名は? いかような力を持つ?」
「…………」
イザナミの辛抱強い再度の問いに対しても、女神の反応は同じく無言であった。
「……何とまあ、期待外れである事よ」
イザナミは落胆し、倒れたままのスサノオに対し憐れみと嘲りを込めて言った。
「この期に及んで、己が名も語れぬような出来損ないの女神を産んでしまうとは。
いかに穢れておらぬとはいえ、かような結果で吾が負けを認めると思うか?
文字通り、命を賭した博打にそなたは敗れたのじゃ、スサノオ。
……これで心おきなく、我が傍へと参れよう。
さあ……我が穢れを受け入れよ……!」
ずるずるずるずるッ……!
醜い穢れの塊は、かろうじて神の姿を保っているものの、形は絶えず崩れ悪臭を放ちつつ、倒れたスサノオに覆い被さろうとしていた。
ヒュカカッ!
イザナミの侵蝕を阻止せんと、ウケモチが葦矢を放った。
穢れの塊の一部が爆ぜたものの、瞬く間に泡立つように元に戻り、勢いは止まらない。
「……なッ……オイラの矢が。効いてねえ、だとォ……!?」
「無駄じゃ小神。今の吾にそのようなもの、蚊が刺した程にも感じぬ。
己の無力を噛みしめつつ、震えておるがいい」
「…………ッ!」
周囲にいたタヂカラオ達も、イザナミの蠢きに対しどうする事もできず、絶望していた。
その時だった。
微笑むだけで黙して語らなかった、女神の口が動いたのは。
唇の形が微かに変わる。だが声は何も聞こえない。
異変は、イザナミの精神に起こっていた。
不意に彼女の視界が一変した。
灰色の荒廃した大地が、一瞬にして青い海原へと変化したのだ。
**********
(なッ…………何なのじゃ、これはッ…………!?)
幻覚か? それにしてははっきりとし過ぎている。
何よりもこの光景……イザナミは見覚えがあった。
ここは天浮橋。国が産まれる前、最初に降り立った聖なる場所。
遠い遠い、遥か昔の記憶。海面に海月のような、頼りなく漂うものが見える。
あれは生まれたばかりの──国土。
「……汝ら二柱に、この天沼矛を授ける。
この漂っている国土を整え、つくり固めよ」
(これは……吾とイザナギに国産みを命じた、別天神の声……まさかッ)
イザナミはハッとなって、隣で天沼矛を受け取っている者を見た。
忘れる筈もない、兄にして夫たる……今でも愛して止む事のない、イザナギの姿がそこにあった。
(何故じゃ……何故今頃になって、このような昔の事を……)
こおろ、こおろ。
天沼矛が潮をかき混ぜ、その切っ先から落ちた塩が固まり、島が出来た。
イザナギとイザナミはその島に降り立ち、国産みと神産みを始めた。
(何もかもが全て、上手くいった訳ではなかったが……)
イザナミは目を閉じ、呼び起される昔の記憶を流れるままに辿っていった。
降り立った島を天御柱と八尋殿に見立て、美斗能麻具波比を行った事。
「──あなにやし、えをとこを」
「──あなにやし、えをとめを」
だが初めて産んだ二柱の子は、不具であった。
(済まぬ……ヒルコ、アワシマ……
吾から先にイザナギに声をかけてしまったばかりに……)
泣く泣く彼らを葦の舟に乗せ、海へ流してしまった後悔。
別天神からの太占の神託に従い、麻具波比の方法をやり直した後……二柱は数多の島々と神々を産む事となった。
(じゃがそれでも……イザナギと共に過ごし、国と神を産んだあの日々は……幸せであった。
カグツチに女陰を焼かれ、苦しみ抜いて死した瞬間まで、吾は夫に愛されておるのを感じた……)
**********
ふと、イザナミは記憶の海から現実に引き戻された。
広漠たる黄泉の大地。倒れ伏したままのスサノオ。
傍らには、微笑んだまま佇んでいる、先ほど産まれた名も知れぬ女神。
「……今の記憶を呼び起こしたのは、そなたの能力か? 名すら語れぬ女神よ」
イザナミの問いに、女神は微笑みながらコクリと頷いた。
「懐かしき感傷に浸らせてくれた事には、礼を言おうぞ。
じゃが、全ては昔の事。もはや戻らぬ時の彼方よ。吾の意思は揺らぎはせぬ」
(そうじゃ、決定は変わらぬ。
いかに昔が懐かしく、あの頃に戻りたいと願った所でな──)
今度こそスサノオを殺すべく、イザナミは手を伸ばそうとした。
突如、イザナミの背後から何者かが手を触れた。
と同時に、彼女の全身に久しく感じた事のないものが走った。激痛である。
「ぐうッ…………!」
黄泉大神となった彼女にとって、それは感じる筈のない痛みだった。
肉が腐り、蛆が湧き、肉体の所々を蝕まれる。むず痒さを越えた全身の苦痛に、イザナミは激しく打ちのめされた。
「あああああああッッッッ!?」
全身から溢れ出る吐瀉物や糞尿の、穢れによる苦しみ。
やがて女陰が炎に包まれたような激しい熱さと痛みを覚え──
気がつくとイザナミから、苦しみの全てが過ぎ去っていた。
スサノオの首を絞め殺そうと伸ばした手が、イザナミの目に映る。
だがそれは、見慣れた腐り落ちた仄暗い腕ではなかった。
白く美しく、瑞々しさに満ちた清らかなる腕。
腕だけではなかった。イザナミの全身は、生前の美しき女神の姿に戻っていた。




