五.苦悩する二柱
ここは尊き天津神のおわす天上世界、高天原。
高天原を治めるは、三貴子が一柱であり、太陽を司る神として名高いアマテラスである。
彼女は太陽神に相応しく、照り輝くような顔と気品を備えた、美しき女神であった。
しかし今、アマテラスの顔は暗く沈み、翳りのようなものが見える。何かあるたびに溜め息をついている。
悩んでいるのだ。この前、高天原に招き入れた弟スサノオの事で。
(おかしいわね……天安川で誓約をした時に、アイツに邪心がない事はハッキリした筈なのに。
なのになんで、スサノオはここであんな罰当たりな真似ばかりできるのかしら……あぁ、胃が痛い)
スサノオが高天原入りしてからというもの、アマテラスは気が休まらなかった。
まずスサノオは、アマテラスの耕している田圃の畔を壊した。
次にアマテラスの田圃に引いている、灌漑用の溝を埋めてしまった。
さらには、アマテラスが新嘗祭(註:収穫祭のこと)に用いる新しい稲を保管している御殿に、糞尿を撒き散らしたというのだ。
もう滅茶苦茶というか、完全にアマテラスに対する嫌がらせである。
当然、高天原に住む天津神たちから、スサノオに対する苦情や非難がアマテラスの下に殺到する。
そのたびにアマテラスは、弟の乱暴狼藉を、半ばこじつけのような言い訳をして庇い立てした。
誓約の結果とはいえ、スサノオの高天原滞在を許可したのは、他ならぬアマテラスなのだ。その負い目があったのだろう。
「……スサノオには、何か考えがあっての事なのよ。多分、きっと……」
と、自分に言い聞かせてみたものの。
悩みは晴れないし、気分は沈んでいくばかり。
実際スサノオに邪心はなく、無軌道な乱暴狼藉の数々も、元をただせばイザナミの指示によるものである。
つまりアマテラスの見立ては正しかったのだが、だからといってスサノオの背景や真意が分からない以上、彼女の心労は日増しにつのっていくのであった。
「あぁ……心なしか最近、黒い雨雲が目立つようになってきたし……
落ち込むなぁ。一体どうすればいいんだろう、わたし……」
アマテラスはふと、神に献上する御衣の仕事が残っているのを思い出した。
いまいち気乗りはしないが、アマテラスのさらに上位におわす、いと尊き別天神たちへの捧げ物。疎かにする訳にはいかない。
アマテラスは自分の所有する神聖な機屋に機織りを司る女神らを集め、御衣を織るように命じた。
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一方、やりたい放題やっているように見えるスサノオであるが。
彼は彼で、自分は一体何をやっているのだろうと思い悩んでいるのだった。
確かにイザナミと約束をした。この罰当たりな愚行の数々も、母に会うために必要な事なのだと言い含められ、納得して覚悟を決めたつもりだった。
だが実際にやってみると、誰の目から見ても悪ふざけが過ぎているし、何のために行っているのかの説明すらできない。
たまに神々から、数々の乱暴に対する詰問の使者が訪れたりしたが、スサノオはまともに取り合わず追い払うだけだった。
スサノオ自身、これらの行為にどんな意味があるのか、完全に理解している訳ではなかったし、何より母イザナミの名を出さぬよう、強く念を押されていたからである。
高天原に住む神々の、スサノオに対する視線は日に日に痛く、冷たいものになっていく。
今ではスサノオへの苦情の大半は、姉のアマテラスの下に行っているらしい。
自分の行いが姉を苦しめていると知り、スサノオの心は締め付けられた。巷では乱暴者で通っている彼だが、やはり家族は大切に思っているのだ。
正直すぐにでも、この高天原を出て行きたかった。
しかしそれはできない。まだイザナミとの約束を完全に果たした訳ではなく、それが終わるまでは留まらなければならない。
スサノオの行動のためか、輝かしき天上世界であるはずの高天原も今や、怪しげな暗雲が立ち込めるようになっていた。
ふと、失意の底にいるスサノオの下に、小さな稲光が落ち、見覚えのある雷神が姿を現した。大雷である。
「しばらくぶりでございます、スサノオ様」
「お前か……黄泉の神であるお前が、どうやってこの高天原に?」
「スサノオ様のお陰でございます。
本来であれば、我のような穢れに満ちた神は、天上に足を踏み入れる事すら叶わぬのですが……
貴方様は、我が主イザナミ様のお言葉に従い、尊き高天原に数々の穢れを作り出されました。
その穢れが、我を招き寄せる『門』と成り得たのでございます」
「……あの滅茶苦茶な指示には、そういう理由があったのかよ……」
「左様にございます。そして我、大雷めは……
スサノオ様に、イザナミ様からの最後のご指示を伝えるべく参った次第。
もっとも、この遠く尊き高天原においては、我が主の声を直接届ける事、叶いませぬが」
大雷は、スサノオが己の糞尿で汚しに汚した御殿を見て言った。
「フーム。確かにイザナミ様のご指示では『御殿を穢せ』との事でしたが……」
「いや、その……さすがに天上の高天原で、穢れになるようなモンってなかなか無くてな……
苦し紛れで仕方なく、オレの……モノを、使う事しか思いつかなかったんだ」
「いやいや、我の目から見れば、なかなかのご慧眼。
流石でございますスサノオ様。
己が排泄物であれば、周囲に怪しまれる事なく御殿に持ち込む事が可能ですからなァ」
雷神は褒めそやしたが、母イザナミがこの事を知ったら、一体どんな顔をするだろうか。
そしてスサノオは尊き三貴子でありながら、この世において初めて糞尿を撒き散らした神として、神話に名を残すのだろうか。
それを考えると、スサノオは暗澹たる気持ちになったが……ここまで来たら、もう後戻りはできない。
スサノオは覚悟を決めて尋ねた。
「……大雷。母上はなんと言っておられる? オレは一体何をすればいい?」
「今、アマテラス様の所在は分かりますかな?」
「ああ……今、機屋で御衣を織る仕事を女神たちにやらせているから、そのうち機屋に姿を現すと思う」
「なるほど。ではイザナミ様からの、最後のお言葉をお教えしましょう……」
イザナミのお膳立ては、整いつつあった。
地上のみならず、天上をも覆い尽くす暗雲は騒がしく、地下で密かに蠢いていた災厄に、高天原の神々は気づく事ができなかった。
ついに来る。陽が、翳るときが。