十六.最後の戦い①
イザナミの出現により、黄泉の国の大地が穢れた土と毒蟲へと変わり、ツクヨミとスサノオを飲み込まんとしていた頃。
そこからさほど遠くない、白濁した水を湛えた海を進んでくる影があった。
目と鼻に傷を抱えた巨大な黒鮫。
八雷神の一柱、黒雷が変身した八十合神・影鰐である。
影鰐の背後には二艘の葦の舟が繋がれており、それぞれにタヂカラオとウズメ。オオゲツヒメとウケモチが乗り込んでいた。
影鰐こと黒雷は戦いに敗れた後、ウケモチの持つ桃弓と葦矢によって心臓を狙われていると脅され、彼らの要求に従いイザナミの下へと道案内をさせられていたのである。
「最奥の玉座の間じゃねえけど……あのとんでもねえ事態は、間違いなくイザナミだな」
ウケモチは海岸から遠くを見やり、その先で起こっている怪異を把握したようだった。
「わざわざこんな場所に出向いてるって事は、アイツもそれなりに焦ってるって事か……」
「……言った通りだろォ……? オデ、命かかっでる時、嘘づかないィ……」
黒雷が濁声で卑屈に言ってきた。
「約束通り、オデを生かして逃がしてぐれェ……
このままイザナミ様の下へ行ったら、オデ殺される……」
哀れっぽい声音を上げる雷神に、ウケモチはにっこりと笑顔を向けた。
「ああ、オイラは約束は守るぜ。
礼を言う。お前が急いでくれたお陰で、こんなに早くスサノオ達に追いつく事ができたからな」
(悪ィな黒雷。最初からお前を逃がす気なんてこれっぽっちもないんだわ。
状況がそれを許さねえ。下手に逃がして心変わりして襲って来られても困るし。
オイラは状況次第で嘘をつく事くらい、何でもねえ。今は非常事態だ、悪く思うなよ──)
ウケモチは笑顔のまま、雷神の体内にいるモモユミヒメ・アシヤヒコの二柱に、心臓を射抜くように命じた。
ドシュッ!!
影鰐の巨体は貫かれていた。外側から。海岸の灰色の土が尖り、銛のように鋭くなって。
「なッ…………!?」
ウケモチの命令が実行されるより早く、黄泉の国の大地が黒雷に制裁を加えていた。
「ギ……ゲゲ……そん、な……イザナミ、様ァ……お許じを……」
次の瞬間、影鰐の姿は爆散した。後に残ったのは、茫然とした表情の双子神たちだけであった。
(まさか、そんなッ……オイラが射抜くよう命じるよりも早く、イザナミが動いたってのか!?
しかもこの海岸に来てる事まで見抜いてやがった。これはつまり──)
ウケモチは黄泉大神の底知れぬ力に戦慄を覚えたが、仲間たちの声によって現実に引き戻された。
「おい見ろウケモチ! ツクヨミの奴が消えた……!?」
タヂカラオが焦り声を上げる。ちょうどツクヨミが拆雷に拘束され、彼の統括する雷地獄へと連れ去られた時だった。
「急ぎましょう、みんな! このままじゃ、スサノオくんも殺られちゃう……!」
ウズメの言葉に従い、オオゲツヒメをはじめとする仲間たちは駆け出した。
今しがたの黒雷の惨状を見て、自分たちの接近が気取られている事は、全員が気づいているだろう。
だがそれでも、誰もが躊躇なく動いていた。ただ、スサノオを救う。それだけの為に。
ウケモチも気持ちを切り替える事にした。
今は恐怖に震えている暇すらない、と。
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膝をつき項垂れているスサノオに対し、黄泉大神イザナミは、穢れた巨大な腕を伸ばし、無数の毒蟲を地に這わせながら迫った。
「さあ、スサノオや。この母イザナミに身も心も委ねよ。
悪いようにはせぬ……そなたも愛しき我が子である事に変わりはないからのう」
亡者の多くが夏の蠅のような耳障りな声を上げるにも関わらず、黄泉の女王たるイザナミの声は慈母の如き優しさと美しさを兼ね備え、スサノオの耳に心地よく響いた。
この絶望的な状況にあっては、いかに豪胆な魂魄を持つ神であっても、従い受け入れざるを得ないだろう。
ところが。
イザナミの腕が届く寸前、スサノオの周囲を一陣の風が吹き、渦を巻いた。
風の力は瞬く間に増し、巨大な質量を持つはずの穢れた腕は土くれとなって飛び散った。と同時に、這い進んでいた毒蟲の群れも舞い上がり、吹き飛ばされる!
「──さっきも言ったろう、母上。
その申し出は受け入れられない、って」
スサノオは立ち上がり、憮然とした表情で十拳剣を構えた。
「かような状況で、孤独であるにも関わらず、心は変わらぬと申すのかや?」
イザナミはあくまで心穏やかな風を装っているが、声の奥に微かな苛立ちが滲むのを隠すことができなかった。
「愚かな事よ。勝ち目なき戦いは、そなたの苦痛を増し、より痛ましい傷跡を残すだけぞ?」
「……もう一度言うぜ、母上。姉上の『魂』を返してくれ」
「くどい! こちらも答えは変わらぬ。欲しければ奪うがよいッ!」
イザナミは今度は、圧倒的な質量を持つ土塊を隆起させ、スサノオを一気に押し潰そうとしてきた。
もはや並大抵の風では吹き飛ばせない。スサノオは残り少ない神力を集中させ、さらに強い大風を起こそうとした。
ギュオオオッッ!!
スサノオの大風は一旦はイザナミの攻勢を押し戻したが、やはりカグツチ戦の時のような神力は取り戻せておらず、加えてツクヨミによる精神的支援もない。
風の制御も長くは続かず、集中が途切れた。そこに容赦なくイザナミの眷属が殺到する!
(くッ……駄目か。ここまでかよ……!)
ヒュカカカッ!!
不意にスサノオの周囲に、八本の葦矢が突き刺さった。
「……これはッ!?」
食物の女神オオゲツヒメに寄り添う、小さな闇の神ウケモチの放った穢れを祓う矢の陣だ。
「スサノオくん。間一髪だったわね」
スサノオの前に、二柱の神が立っていた。
片方は、快活そうな舞の女神ウズメ。振り向きざまにスサノオに片目をつぶると、両手の筆架叉を手に、新たに舞い始めた。
(スサノオくんの、風を想像してッ……力に変える!)
ウケモチの矢からほとばしる浄化の力を、ウズメの風の舞が運び上げる!
ギチチチチチィィッッ!?
地上を這う毒蟲の群れは、ウズメの起こした風による祓いの力を本能的に避け、矢の陣から一目散に逃げ出していった。
「待たせたなスサノオ。シケた面してんじゃあねーぜッ!」
聞き覚えのある力強い声。矢の陣のさらに先に、偉丈夫の男神タヂカラオが降り立ち、漲る力を拳に溜めて構えていた。
彼の腕は先の火髑髏との戦いで大火傷を負っていたのだが、ウケモチと合流した際に彼の桃の実を使って癒していた。
イザナミの操る大質量の巨腕が迫る寸前、タヂカラオは地面に向けて渾身の一撃を放った!
途端に轟音が黄泉の国中に響き渡り、たちまち地割れが発生する。
彼の立っている先の大地が、盛大な悲鳴を上げて崩れ去っていった。
足場を失った巨腕は均衡を崩し、地割れの中へと飲み込まれて崩壊していく!
「は……ははッ。みんな、無事だったのかよ。相変わらず出鱈目な力技だぜ……」
皮肉めいた声を上げるスサノオであったが、古今東西、窮地に駆けつけてくれた仲間ほど心強いものはない。
強大な敵に立ち向かう勇気を再び取り戻すのに、それは十分すぎるものだった。




