十三.黄泉を統べる者・後編
ずっと沈黙して、イザナミの言葉を聞いていたスサノオだったが……やがて消え入りそうな声で言った。
「……その申し出は受けられない、母上」
「何故じゃ?」
「世界が闇に包まれてから……オレは色んな神々や人々が、悲嘆にくれ悲惨な死を迎えているのを、つぶさに見てきた。
そしてこの黄泉の国の亡者の様子も見た……仮に母上の言うように、全ての命が死に、黄泉の住民となったとしても。
全てが死の世界となった時に、皆が幸せになれるとは……オレは到底思えない」
「そう思うのは、そなたが生者であるからじゃ。
死は平等ぞ。何もかもを受け入れる」
「……そうかもしれない。だが……オレは。
オレが引き起こした事でもある、この世界の闇を祓わなきゃならない。
ここに来た時、みんなで決めたんだ。必ず……姉上の『魂』を取り戻すって」
スサノオの声は、いつしか強い信念を持ち。己を奮い立たせていた。
「母上。姉上の『魂』である鏡を、オレたちに返してくれないか。
そうしてくれれば、これ以上黄泉の国でオレたちは何もしない。
すぐに地上に帰るよ」
手を差し伸べるスサノオの言葉に、イザナミはしばしの間無言であった。
だがやがて大気がビリビリと震え出し、彼女の纏う穢れがより一層に強まる!
「……かような戯言を、今更この吾が聞き入れると思うのか?」
黄泉大神たるイザナミの声は、怒りに満ちていた。
「思い上がるでない、痴れ者どもめ!
アマテラスの鏡が欲しくば、腕ずくで奪ってみせよ!」
イザナミの亡骸は膨れ上がり、盛り上がった灰色の大地を纏った。
その高さはスサノオたちを遥か頭上から見下ろすまでになり、肥大化した巨体は歪な形となって、今にもはち切れんばかりとなった。
泥まみれの肉体の至る所に、蛆や百足、蟻といったおぞましき蟲たちが這いずり回っているのが見えた。
「くッ…………母上…………!」
スサノオは悲しげに、怒り狂ったイザナミの凶貌を見上げていた。
「スサノオ! これ以上は危険だ。一旦退がろう!」
ツクヨミが放心しているスサノオの肩を掴んだ。
「あの身体はすぐにでも破裂する!
あれだけ濃い穢れを浴びれば、こちらの肉も腐り落ちるぞッ!」
ツクヨミの言葉に、スサノオもようやく我に返ってその場を跳び退った。
ドドドドド……ドバァァァアアアアッッッ!!!
ツクヨミの予想通り、限界にまで膨れ上がったイザナミの亡骸は弾け飛んだ。
逃げるツクヨミ、スサノオのいた大地を次々と飛び散った濃い穢れが飲み込み、灰色だった地を腐汁の色に染め上げていく!
腐って悪臭を放つ土から、今度はおびただしい数の毒蟲の群れが飛び出した。
彼らは意思を持っているかのように素早く這いずり回り、逃げる二柱に向かって殺到する!
「ツクヨミ! このままじゃ追いつかれるッ」
スサノオが悲鳴を上げた。
これだけの数の穢れに満ちた蟲相手では、剣による正攻法など体力を無駄に消耗しかねなかった。
「やむを得ない、スサノオ。こうなったらカグツチと戦った時のように、また風を操って一掃するしか……」
「……分かった。消耗は激しいが、今はそれしかねえ!」
スサノオの神力は回復しきってはいない。カグツチを吹き飛ばしたような大風を再び巻き起こせるかは疑問ではあったが……彼はツクヨミに従い立ち止まった。
ツクヨミもまた、スサノオと合体するべく黒い勾玉に変化しようとした。が……
「……立ち止まる瞬間を待っておったぞ、ツクヨミ」
「なッ……!?」
甘く優しき母の声。ツクヨミの耳元からそれが突如、囁かれた。
さしものツクヨミも、予想だにしなかった事態に度肝を抜かれ硬直する。
(何故だ……あの膨れ上がり、破裂した身体が本体ではないとは思っていたが……
どうしてここまで素早く、私の背後に回る事ができたんだッ……!?)
「吾がここにいる理由が知りたそうじゃな。教えてやろうぞツクヨミ」
イザナミはその穢れた両腕で、ツクヨミの身体を羽交い絞めにした。
その両腕からさらに、無数の小さな土気色の腕が生え、ツクヨミの肉体のありとあらゆる箇所を拘束する!
「がッ……ああああッッッ!?」
闇の御衣の上からも凄まじい穢れに侵蝕され、苦悶の絶叫を上げるツクヨミ。
「ツクヨミッ……! 母上、ツクヨミを離せェッ!!」
スサノオは半ば恐怖に駆られた状態で、咄嗟に十拳剣を振りかぶり、拘束されたツクヨミを助け出そうと動いた。
彼の持つ神剣が、陽の届かぬ黄泉の地においても神力を帯びて微かに輝く。
「ふふふ、スサノオや。慌てるでない……」
イザナミの嗜虐に満ちた仄暗い笑みが、スサノオの必死の形相を射すくめた。
黄泉大神の穢れた腸の部分が、鈍い光を帯びたように見えた。
「そなたはじっくりと料理してやろう。
じわじわと。真綿で首を絞めるようにのう……
じゃが、そなたら二柱に力を合わせられると少々厄介じゃ。カグツチの轍は吾も踏みたくはない。
故にツクヨミ。そなたは今しばらく、別の場所で待っていて貰おうかの。
……拆雷」
イザナミの語りかけに応え、彼女の下腹部から女陰に宿りし雷神・拆雷が嬉々として実体化した。
それは両腕のない奇妙な姿だったが、瞬く間に雷を纏うドス黒い大蛇へと変化し、ツクヨミの身体に素早く巻き付いた。
「黄泉大神ィ……貴女様に成り代わり、ツクヨミめを拘束致しましたッ!」
拆雷は恍惚とした表情で声を上げ、身動きの取れぬツクヨミの身体を嘗め回すように締め上げる!
「……うッ……ぐ……あああッッ!!」
イザナミの穢れに侵蝕され消耗したためか、ツクヨミは振りほどく事もできずに弄ばれるだけだった。
「……女神と見紛うばかりの美しい顔に、色香の漂うたおやかな肢体……
にも関わらず貴方、男神なのか。意外や意外」
下劣な品性を持った雷神に相応しい、嫌らしい声で囁く拆雷。
「まァそれはそれで、そそられるがねェ。
新しい愉しみが見つかるかもしれねェなァ……ヒヒヒヒ!」
「ようやった、拆雷……ツクヨミは好きにせよ。
せいぜいそなたの流儀で、もてなせ」
「御意にございます、お優しきイザナミ様ァ!」
大蛇の姿でツクヨミを締め上げたまま、拆雷はなまめかしく蠢きながら目映い閃光を放った。
雄叫びを上げて斬りかかったスサノオの神剣は虚しく空を切り、ツクヨミは視界から消えてしまった。
「これで分かったであろう、スサノオ。
偉大なる黄泉大神たる吾に逆らうのが、いかに愚かな事か。
そなたには最初から、話し合う道も戦う術も、用意されてはおらなんだのじゃ」
救援が間に合わず、意気消沈して膝をつくスサノオ。
イザナミのおぞましき両腕が包み込むように迫って来た。




