十二.黄泉を統べる者・前編
ツクヨミとスサノオは太占の結果に従い、熱泥地獄を離れさらに黄泉の国の最奥を目指した。
カグツチの支配領域であった地を離れた途端、見慣れた肌寒い曇天と灰色の大地が視界に入った。
(今の地上……葦原中国も似たようなものだ)
ツクヨミは、全てが死の世界に染まる前に、母であるイザナミの暴走を食い止めねばならないと改めて思うのだった。
二柱が旅して三日が過ぎた。
オオゲツヒメの食糧支援はないが、どちらからも空腹を訴える気配はない。
三貴子たるツクヨミ、スサノオ共々、そう簡単に餓死する訳ではないが……それでも先のカグツチとの戦いで神力を消耗したスサノオの足取りは重い。怪我も治りきってはいない様子だった。
「……スサノオ。よかったら私の桃を食べてくれ」
ツクヨミは申し出て、オオカムズミに貰った桃の実を取り出した。生者に癒しを与える聖なる力を秘めている。
「オレは大丈夫さ。それにツクヨミ。
お前だってカグツチに火傷を負わされたろう?」
「……いや、大丈夫じゃない」
ツクヨミはグイとスサノオに顔を近づけ、彼の顔を真っ直ぐに見据えた。
……数秒後、スサノオは気恥ずかしげに顔を背けた。
「ホラ、大丈夫じゃない。スサノオは私などよりずっと消耗している。
桃の実じゃあ神力の回復は望めないが、それでも食べないよりはずっとマシだ」
「……分かった。じゃあせめて……半分にしてお互い食べようぜ」
最終的にスサノオは折れたが、ツクヨミと半分ずつ食べるという案が通った。
二柱の火傷の跡が消え、苦痛と疲労が和らぐ。
ある程度活力を取り戻したツクヨミとスサノオは、さらに歩を進めた。
さらに一日が過ぎた頃。周囲に異変が起こった。
地鳴りがする。ツクヨミたちのいる地面に留まらず、黄泉の国全体が激しく鳴動している。
先にカグツチの手によって、地面を泥化させられた事もあったが、今回はあの比ではない規模と強さであった。
(……これは、来たか。ついに……)
ただならぬ事態に、ツクヨミ、スサノオともども息を飲んで身構える。
やがて二柱の見据える先の地面から、今までとは比較にならぬほどの強力な穢れが膨れ上がるのが見えた。
大地が盛り上がり、灰色がおぞましい紫色となって破裂する!
姿を現したのは、腐りかけた屍だった。
未だに腐肉に蛆が盛んに湧き、ところどころに深い闇と雷光を纏っている。
醜くおぞましく、生者に対し恐怖と狂気を振り撒かずにはいられない、魑魅魍魎の如き亡者。
もはや男神か女神か、区別もつかぬほどの穢れに満ちた存在であったが……ツクヨミもスサノオも、この亡者が何者であるかを知っている。
黄泉の国を統べる者。黄泉大神イザナミ──
「……ここまでよう参った。ツクヨミにスサノオ……愛しき我が子たちよ」
イザナミは口を開いた。
姿こそ醜いが、その声はかつてスサノオが地上にいた時に聞いた、心優しい母の声のままであった。
「母上…………!」
スサノオはイザナミの放つ瘴気の強さに、気勢を飲まれかけてしまったが、どうにか踏み止まり精一杯の声を上げた。
「どうしてだ、母上……なんで姉上の『魂』を奪ったんだよ?
オレを言葉巧みに騙してまでッ」
「今更聞きたいのは、そんな事なのか?」イザナミは拍子抜けしたように言った。
「わざわざ吾の口から語らずとも、すでに吾の目的など知れておろう?」
「……スサノオに答えてやって下さい、母上」ツクヨミが言葉を添えた。
「弟は、貴女の口から真相を聞きたい。その為にここまでやって来たのだから」
二柱の言葉に、イザナミは「やれやれ」といった様子で肩をすくめた。
「……まあよかろう。
吾の目的は、地上も天上も区別なく、吾の統べる黄泉へと堕とすためじゃ。
かつて夫のイザナギが、死した吾を連れ戻すため、黄泉の国を訪れた話は知っておるな?」
イザナミは遥か昔の思い出のように、遠くを見つめながら語った。
「吾とてイザナギと共に、永久に在りたかった。
産んだ神々もまだ十分ではない。出来うる事なら再び現世へと還りたかった……
じゃが、それはすでに叶わぬ夢であった。吾はすでにヨモツヘグリを食し、黄泉の住民と化していたからじゃ」
イザナミの声は、悲しみに震えていた。
「それでもイザナギは吾と共に在りたいと願った。
故に吾は考えたのじゃ。吾もイザナギも、同じ想いであるならば。
死者は生者に戻れぬ。じゃが……生者はいつでも死者となれる。イザナギが黄泉の住民となれば、互いの望みが叶うとな」
スサノオは母の異常性に気づいた。彼女の言い分はすでに破綻している。
神産みを続けたいと言いながら、イザナギを亡き者とするのでは本末転倒も甚だしい。
それに生者が望んで死者となるのは、自殺と呼ばれる忌むべき行為だ。
イザナギがそれを望むはずがなかった。
「だから吾は、イザナギが訪ねて来てから……黄泉の神々に願い、その力と権限のほぼ全てを吾の中に取り込んだのじゃ。
全てはイザナギを、我が黄泉の国へと迎え入れるために。それには多くの時間を要した。
吾が黄泉の神々の全てを取り込み、黄泉大神となる寸前。
イザナギめは、吾の言った禁を破り、我が恥ずべき姿を覗き見てしもうた」
そこから先の話は、昨今に伝え残されし古事記に書かれた通り。イザナギの黄泉の脱出劇へと繋がる。
ただ知られていなかったのは、イザナミは最初からイザナギを亡者とするために、敢えて偽りを述べてイザナギを黄泉の国に留め置いたという点である。
「……結局イザナギは地上へと逃れてしまった。吾は悲しかった。
そして妬ましかった。吾や黄泉の神々は、何故これほどまでに醜く穢らわしく、恥辱に甘んじなければならぬのかと。
吾はずっと考え、待ちに待ち続けた。吾の望みを果たす好機をな」
イザナミはさも愉快そうに、とくとくと己の野望を語った。
「アマテラスさえ亡き者とすれば、陽光は二度と戻らず、全てが闇となり、いずれ死を迎える。
そうなれば皆、仲良う暮らせるようになる。吾ら亡者も、穢れや醜き姿を恥じる必要がなくなる。
スサノオ。そなたも吾に会いたがっておったであろう。
今からでも遅くはない……吾の望む世界を共に作らぬか?
さすれば、我が夫イザナギも、そなたの姉アマテラスも……皆等しく、黄泉の国にて何の気兼ねもなく一緒になれようぞ!」




