八.火の神・カグツチとの戦い①
スサノオとツクヨミの目の前で、四柱の仲間たちが次々と泥の中へと沈んでいくと同時に現れたのは、炎に包まれた荒ぶる神の姿だった。
スサノオらよりも背は低く、より幼い顔立ちの男神である。
しかしその瞳は黒く濁っており、首には痛々しい傷跡がはっきりと残っていた。
「はじめましてだな、弟たちよ。
ボクの名前はカグツチ。火を司る神だ」
カグツチは無表情のまま、両手を広げて名乗った。
すると周囲の景色が一変し……仄暗い空間となり、地面の全てが熱を持った泥土と化していた。
「これはッ……!」
スサノオが息を飲む。
自然とツクヨミと背中合わせとなり、周囲の熱気に顔をしかめる。
「ここはボクの統括する地獄……『熱泥地獄』と呼んでいる」
カグツチが抑揚のない声で言った。
「お前たちが足を踏み入れた地はすでに、ボクの地獄の一部と化していたのさ。
他の四柱には、それぞれ違う地獄へと落ちてもらったが……
特に神力の強い三貴子であるお前たちは、ボクが直接相手をするようにと……母イザナミからの直々のお達しでね」
カグツチは二柱に対し……少し落胆したような声を上げた。
「何だ? お前たち。三貴子の割に、神力が思ったほどじゃあないな。ボクの想定していたよりも随分、力が弱い……二柱でようやく一柱分に届くかどうかだ」
「そいつは……ツクヨミをここに連れてくる時に、オレの魂魄を半分、夜之食国に置いてきたからだよ」
スサノオは正直に答えた。隠した所でどうしようもない。
対峙しただけで自分たちの神力が十全でない事を見抜かれているのでは、尚更だ。
「へえ? さすがに自分の国を放り出す訳にはいかなかったって訳か。
だからお互い力が半分ずつ……と。そいつは傑作だね」
カグツチは無表情のままだったが、声だけはさも可笑しげに弾んでいた。
「舐められたものだ。そんな不完全な状態で黄泉の国に乗り込んで……アマテラスの『魂』を奪い返す気だったのかい」
「……舐めてなど、いないさ」ツクヨミは静かに口を開いた。
「今更だが、私たちは黄泉の国に攻めてきたんじゃあないし、姉上の魂を強奪しに来た訳でもない。
母上と交渉し、穏便に魂を返して貰えるなら、それに越した事はないからね。
……どうか、母上に取り次いではくれないか? カグツチ兄様」
「あはははははは! それ本気で言ってるのかい? ツクヨミ!
スサノオもこいつと同意見なのか? おめでたい連中だ!」
カグツチは腹を抱えて大笑いした。
スサノオは憮然とした表情でその様子を見据えている。
「……今更どころじゃあない、周回遅れの提案だ。もう話し合いなんて悠長な段階はとっくに過ぎてる。
ボクが何をしたかぐらい、お前らも知ってるだろう?
阿蘇の山神を怒らせて噴火させ、世界を闇に閉ざしたんだ!
黄泉比良坂を見てきただろう! あそこにひしめいている亡者どもは、全部このボクが殺したようなもんさ」
さっきまでおどけた調子だったカグツチは、突如暗い情念を込めて凄んだ。
「……ボクはもう、とっくに覚悟を決めている。母上の言いつけに従うって事は、生者であるお前らとの全面戦争だってね。
もう後戻りなんてできる状態じゃない。どちらかが滅びるまで、戦い続けるしかないんだよッ!」
火の神は声を荒げ、周囲の渦を巻く炎の力が強まった。
完全な臨戦態勢。凄まじい殺気を感じ……スサノオとツクヨミも同時に油断なく身構えた。
「はッははは。それでいい、弟たちよ。
甘っちょろい台詞が聞こえたから、平和主義でも謳う腑抜けに成り下がったかと心配してしまったじゃないか。
ちゃんとやればできる神だって事を、証明しろ。
ボクを失望させないでくれよ!」
言うが早いか、カグツチはおもむろに両手を広げ、十の指に鋭く燃え上がる炎を纏わせた。
だが次の瞬間、火の神は炎の爪を使い、己の肉体を掻き毟り始めた!
『!?』予想外のカグツチの行動に、二柱は驚愕する。
「何も驚く事はないだろう、弟たちよ!」全身から大量の血をほとばしらせつつ、カグツチは哄笑した。
「ボクが産まれた時の逸話は知ってるよね? 母を殺した後、絶望した父イザナギの剣で首を刎ねられ殺された……!
その時のボクの血や死体から、様々な神が生まれただろう? ボクの肉体は火! すなわち活力! 命そのものだって事さ!
それは黄泉の神となった今でも変わりはない。但し穢れた血から生まれる神は、もれなく悪神の類になってしまうけどね!」
カグツチの自傷行為によって飛び散った血は、熱泥にバラ撒かれ……次々と禍々しい穢れた神となって現出する!
「もしこいつらに勝てないようじゃ、お話にならない。さあ、三貴子としての底力を見せてくれ!」
大陸の神話には、泥をこねて人間を造るという逸話がある。
それは古代中国の女媧と呼ばれる創造神の話で、彼女は人間の数を増やすために縄を使った。その際に飛んだ泥の飛沫からは凡庸な人間が生まれたという。
カグツチの行為も、女媧のそれを醜悪になぞらえた、悪しき神々の創造だった。
歪な神々の瞳に穢れた命の火が宿る。それが激戦の火蓋を切る合図だった。
ぞるぞるぞるぞる……ッ!
カグツチの穢れた血が熱泥と混ざり合い、炎を纏った泥人形のような悪神が無数に生まれ、背中合わせのツクヨミとスサノオを取り囲む。
彼らは下劣そうな笑みを浮かべ、二柱に一斉に襲いかかった!
悪神どもの放つ炎の息吹に、たちまち二柱は包まれる。
しかしその炎の渦から、旋風を纏って飛び出す影があった。
スサノオだ。十拳剣を手に、その凄まじい突進にて炎ごと悪神を数柱薙ぎ払う!
「確かにこいつらに後れを取るようじゃ、話になんねーよな……カグツチの兄貴よォ!」
スサノオの狙いはカグツチであった。突進の勢いを駆って、そのまま火の神の胴に神剣を突き立て、貫いた!
ブシュウウウッ!!
炎に包まれたスサノオの剣から、どす黒く濁った血液が周囲に飛び散る。
「いい動きに、いい一撃だな。スサノオ……だが!
さっきも言ったろう? ボクの肉体は火そのものだと。
その程度の一撃じゃあボクを仕留めるのは無理だよ」
「!?」
カグツチは苦悶するどころか喜悦の声を上げ、炎を噴き上げる両腕でスサノオの肩を鷲掴みにする。
そしてスサノオの十拳剣にて飛び散ったカグツチの血から、先刻と同様に新たな悪神が生まれ始めた!
「ありがとうスサノオ。ボクの新たな手先をわざわざ生み出してくれて」
「ぐッ…………!」
「君の身体は捕まえた。後はボクの生んだ神がトドメを刺してくれるだろう。
安心して死ね」
スサノオは焦燥しつつも、カグツチの反応を見て内心ほくそ笑んでいた。
(さっきの悪神がオレたちを炎に包んだ隙に……ツクヨミを黒い勾玉に変化させ、カグツチの背後に置いた。
だがアイツは気づいてねえ。どころか、ツクヨミが姿を消したせいで『記憶』も失っている……!)
ツクヨミと同等以上の神格を持つ神でなければ、ツクヨミの姿を見失うと同時に記憶が消える。
つまり隙を見て隠れてしまえば、存在すら認識できないツクヨミからの不意打ちが可能となるのだ。
カグツチの注意がスサノオに向いている今が好機。
ツクヨミは手筈通りカグツチの背後から実体化し、黒い十拳剣を振るって火の神の首を刎ねた!




