七.簡単に殺られたりは
爆砕した火髑髏の頭蓋骨。タヂカラオは地面に降り立った。
戦闘による緊張が解けた途端、焼けただれた両の拳の激痛が戻ってきて、彼は顔をしかめた。
「ふゥー……報復できてちったぁスッキリはしたが……
さすがに無茶しすぎたかね。桃もねえし、傷を癒すのも時間がかかりそうだ」
「タヂカラオ様……!」
オオゲツヒメが心配そうに、偉丈夫の男神の下へ駆け寄ってくる。
「ひどいお怪我ですわ。その腕ではお箸もお椀も持てるかどうか……」
「がっはっは! オオゲツヒメが心配する事じゃあねえよ。
てか、ありがとうよ。アンタがいなかったら勝ち目がなかった。
まさかここまで冷静に、救援してくれるとは思わなかったぜ」
最後の一撃を加えた時、右の拳はオオゲツヒメの投げた桃の実を砕く形となり、多少なりとも治癒の手助けにはなった。
そう考えると生者の傷を癒し、死者に激痛を与えるオオカムズミの桃の使い勝手の良さは驚嘆に値する。
頭部を砕かれた巨大な合神は、だらしなく垂れ下がった顎骨が地に落ちると同時に、その巨体を保てずに崩壊した。
周囲に穢れが泥土のように飛散し、次々に血の池に落ちて沈んでいく。
「へッ……散々卑怯な真似しやがって。いい気味だぜ」
タヂカラオがせいせいした様子で言った。
「余り虐めないで下さいましね、タヂカラオ様」
オオゲツヒメが微笑みを浮かべてたしなめた。
「わたくしが恐怖を克服し、立ち向かえたのも……半分はタヂカラオ様。
そしてもう半分は、火雷さまのお陰でもあるのですから」
「そいつは違うぜ」
タヂカラオは、左手でオオゲツヒメの頭をポンポンと撫でた。
「周りが何を言ったにせよ。最終的に戦う決断をし、実行したのはアンタ自身に他ならない。
恐怖を克服し、立ち向かったのは……他の誰でもない、オオゲツヒメさ」
怪力神の言葉に、オオゲツヒメは初めて対等の戦友と認められた気がして、誇らしい気持ちになった。
その時であった。
ザバアアアッ!!
突如血の池の一角から、巨大な水飛沫ならぬ血飛沫が上がり、巨大な黒鮫の怪物が出現した!
その両眼、眉間、鼻先といった所々に、痛々しく矢が突き刺さっている。
『!?』
気が緩んでいたせいもあったかもしれないが、怪物の接近に対応が遅れる二柱。
そのすぐ隣の血の池に急降下し、汚らしい鮫は醜悪な大口を開けて哄笑した。
「ギゲゲゲクキキキ……! なァんだァ……?
火雷の奴……散々偉そうな事をほざいてた割には、やられてんじゃあねえか。
ギギヒヒヒャハハハ! こいつァ笑いが止まらねえぜェ……!」
「何だてめェーは……新手の亡者かッ」タヂカラオは身構えつつ詰問した。
「オデは……八十合神・影鰐……!
さっきお前ェらの仲間を二柱ほど、黒焦げにして丸呑みさせてもらっだぜェ!
確か名前は……ウズメに、ウケモチ……だったかなァ?」
「なッ……ウズメ様と、ウケモチを……そんなッ」
黒鮫の口にした神の名を聞き、途端に青ざめるオオゲツヒメ。
「……あァあ? 何くだらねーハッタリかましてんだ」
タヂカラオは凄んだが、その表情には僅かに焦りの色が浮かんだ。
「虚勢張っても分かるぞォ?
鰐はよォ……恐怖心や血の臭いには敏感なんだ。すぐに分かる……!
まァ火雷が敗れたのには、ちィと驚いたが……考え方次第だよなァ。
お前ら食いでのある美味そうな肉を平らげた後……手柄もオデ独り占めできるって事だものなァ!!」
「嘘をつくんじゃあねーや。お前みてェなウスノロにッ……!
ウズメやウケモチの奴が、そんな簡単に殺られてたまるかってんだよォ!」
タヂカラオは声を張り上げたが、彼の両腕はまともに戦える状態ではない。
オオゲツヒメも傷こそないが消耗している。この巨大な怪物相手にどこまで立ち回れるか……
「ククク、信じたぐねェ気持ちは分からんでもねェ。
見たところお前らはボロボロだァ……
こういう時、仲間が来て助けてぐれるって、都合のいい考えが浮かぶよなァ」
影鰐は嬉しそうに嗜虐的な声を上げ、二柱を煽った。
「だったら嫌でも信じさせてやるよォ!
これ以上ない、奴らの黒焦げ死体という証拠を以てなァ!」
そう言うと怪物は巨大な口を開け、悪臭を放つ舌を使い……二つの黒い塊を取り出して地面に放った。
「…………ッ!?」絶句するオオゲツヒメ。
「グハハハハ、どォーだ絶望したかァ!?
何とか言ってみせろよォ! こいつらは簡単に殺られたりしないンだろォ!?」
「ええ……『貴方のおっしゃる通り』ですわ。
ウズメ様も、ウケモチも……『簡単に殺られたりしない』」
愉悦の絶頂にあった影鰐に、冷や水を浴びせるようにオオゲツヒメは言った。
ヒュカカッ!!
次の瞬間……黒い塊の小さな方から、二本の葦の矢が飛び出し……影鰐の長い舌を貫いて、上顎に突き刺さって磔にした。
「ア……ゲッ……ギグゲッ……!?」
突然起きた事態に、影鰐の思考は追いつかず混乱した。
一体何が起こった? 何故自分の舌は貫かれ、大量の血と穢れを垂れ流しているのだ?
「アー……全く、臭ェ口だったぜ」
黒い塊が晴れ、中から見知った小さな闇の神──ウケモチが、桃弓を構えて姿を現した。
「だがありがとよ。まんまとオイラ達に騙されて、ここまで案内してくれてよォ」
「なァァァにィィィ!? 貴様ッ……オデの落雷に当たったハズじゃ……!?」
「雷が落ちた時……アンタ、鼻も眼もやられてたでしょ」
もう一つの黒い塊からも、女神ウズメが姿を現した。その身体や衣服に焦げ跡の一つもない。
「落雷する直前に、ウケモチくんが持っていた針の武器を咄嗟に放り投げて、避雷してくれたのよね。で、彼の生み出した闇を薄く纏わせて貰って、黒焦げになったように見せかけたって訳」
仮にあの場で影鰐を倒せたとしても、広大な海地獄を越えて仲間と合流するのは非常に骨が折れる。
仲間たちの居場所が分からない以上、移動や探索にも時間がかかりすぎるだろうし、何よりオオゲツヒメとはぐれてしまっている為、食糧が底を尽きあっという間に飢えてしまうだろう。
そこでウズメたちは、黒焦げ死体のフリをして、影鰐に自分たちを運ばせる作戦に出た。
タヂカラオ達の下に向かうか、直接イザナミの下に向かうかは賭けであったが、食欲と功名心に忠実な黒雷はまんまと加勢に向かってくれた。
影鰐の体内にいては胃液に消化される恐れもあったが、奴が黄泉軍を食った時に巻き添えにした葦舟の残骸を使い、何とか二人分の小舟をウケモチが造る事で難を逃れたのであった。
「さて影鰐……いや、黒雷。取引と行こうじゃあねェか」
ウケモチは意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「実はお前の体内にいた時に、モモユミヒメとアシヤヒコを使って、お前の心臓の位置を調べさせたんだよ。
だからもう、お前は詰んでる。
妙な気を起こせば、オイラの弓矢が即、お前の心臓を貫けるからな?
そこら辺を踏まえて。オイラたちの要求を聞くか、このまま戦い続けるか。
好きな方を選べ」
黒雷に選択の余地などなかった。
手柄を独り占めどころか、文字通り心臓を鷲掴みにされたも同然の状態で、敵の言葉に従う以外、彼の生き延びる術は存在しなかったのだ。




