四.誓約(うけい)
スサノオが高天原に赴き、姉のアマテラスに会うつもりであると聞いて、イザナミは声を弾ませた。
「おお、そうであったか……これは渡りに船ぞ。
実は吾も、そなたに高天原に入り、成し遂げて欲しい用向きがあって、この大雷を遣わしたのじゃ」
イザナミの言葉に、スサノオは驚いた顔をした。
スサノオ自身、アマテラスに別れの挨拶をした後はすぐにでも、黄泉の国に赴く予定だったのだ。
「よいかスサノオ。何としても高天原に入り、吾の今から言う事を成せ」
イザナミがスサノオに伝えた『高天原に入ってから成す事』。
粗野な乱暴者として通っているスサノオからしても、にわかには信じがたい内容であった。
「……理不尽に思えるかも知れぬが、そなたと吾が再び会うために、どうしても必要な事なのじゃ。
どうじゃ、やってくれるか? スサノオ」
「母上がそこまで頼み込むって事は、大事なことなんだな……
分かった。約束する」
「礼を言うぞ、愛しき我が子よ……」
さて翻って高天原を見やると、中から物々しい具足の音が鳴り響いている。
「……なんだ? 妙に騒がしいな」スサノオは訝った。
「ふむ、スサノオや。そなたここに来るまでに、散々に道々の山や川、国土を騒がせたであろう?
恐らくアマテラスは、そなたが高天原を奪いに来たと早合点して、戦準備をしておるのであろう」
「戦準備ィ!?
オレはただ、黄泉の国に行くって話をしにきただけだってのに……」
「そなたが申し開きをしても、アマテラスは信じはすまいな。そなた、日頃の行いが悪すぎるのう」
きっぱりとイザナミに言われ、スサノオは気落ちして俯いてしまった。
「……案ずる事はない、スサノオ。吾がそなたを助けると言うたであろう?
よいか。アマテラスがそなたの心を疑ってきたなら、誓約をするように申し出るのじゃ」
「…………誓約?」
「何、知らぬのか?……イザナギめ。こんな大事なことも教えずに、スサノオを放り出したのか。
我が夫ながら、まったく無責任な話よのう……」
「すまない、母上……オレが無知なばっかりに」
「……よい、気にするでない。知らぬ事は恥ではない。
知っている者に教えを乞い、学べば済む話なのじゃからな」
誓約。日本神話においてたびたび登場する、選択に迷った時に行う神頼みのようなものとお考えいただきたい。
大抵は誓約を行う前に、二者択一の条件を提示するのが一般的なやり方だ。
簡単な例を挙げれば「分かれ道に差し掛かった時に棒を立てて離し、棒が倒れた方に進む」。
あるいは「好きな人を思い浮かべ、『好き』『嫌い』と言いながら花びらを一枚ずつ千切る」など。
読者の皆様も、何気なくやった記憶があるのではないだろうか?
これらも立派な誓約である。
スサノオはイザナミから誓約の概要を教わった。
「でも、オレの言う事を信じてもらうための誓約って……
どういう提案をすればいいんだ?」
「そうさのう……スサノオ。
この世では、ありとあらゆるものに神が宿る。知っておるな?」
「もちろんです、母上」
「山や川、風、鉱物、厠……
そして無論、人や神が身につけておる『持ち物』にもな」
「持ち物……」
「その持ち物に宿るという神は、えてしてその『持ち主』の心を映した神となる。
これがどういう事か、分かるか? スサノオや……」
イザナミに問われ、しばし考え込んでいたスサノオであったが、やがて思い至りて目を見開く。
「!……そうか! オレの持っている持ち物から生まれた神が善神なら!
オレに邪心がないという事の、この上ない証ってことになる!」
「……よう答えた、スサノオ。
そなたなかなか、道理に適った答えを返すではないか」
母イザナミに褒められ、スサノオは誇らしくも暖かい気持ちで満たされた。
「スサノオ。吾からの贈り物を受け取っておくれ。……大雷」
「はいィ。大神サマ」
イザナミの声に促され、大雷は懐から、絹の鞘に封じられた十拳剣を取り出し、恭しくスサノオに差し出した。
「……大雷、そなた直に剣に触れておらぬであろうな?」
「滅相もなく。せっかくの神剣、我が穢れに晒されては元も子もございませぬ故」
スサノオは剣を受け取り、中を見た。
磨き抜かれた神剣は、いかなる神も宿していないにも関わらず、陽光のようなきらめきを放っている。
「スサノオ。邪念を払い、無垢なる気持ちでその十拳剣に強く念じよ。
今まで己がしてきた事への償いと、これから成すべき事。決してよこしまな心で行うものではない、とな」
「…………はい、母上…………」
こうして、スサノオは高天原に赴く準備が万端に整った。
大雷は去る。穢れた黄泉の神を従えていては、神聖なる天上において門前払いを食らいかねないからだ。
「…………ありがとう、母上」
「なんじゃ? 急に改まって」
「オレ、正直言って……母上に会いたいと思っていながら、心のどこかで母上を恐れてた。
黄泉の国で、父イザナギがひどい目に遭ったってのを、聞いていたから……」
「スサノオ……」
「でも違った。母上は、オレの想像していた通りの、優しくて色々教えてくれる、オレの大好きな母上だった!
母上とこうして話ができただけでも、オレすごく嬉しいよ」
まっすぐなスサノオの感謝の言葉に、イザナミは思わず息を止め、言葉に詰まってしまった。
イザナミがこれだけ色々と世話を焼いているのは、スサノオを己の計画に利用するためなのだ。
スサノオは母の真意に気づいてもいない。イザナミの心はかすかに痛んだ。
「…………よいかスサノオ。気を抜くでない。
そなたと吾が直に会うために成さねばならぬ事。ゆめゆめ忘れるでないぞ」
「ああ、分かっているよ、母上。
それから大雷。お前のお陰で母上の声を聞く事ができた。
お前にも礼を言うよ」
「……我はイザナミ様の命に従い、事を成しているに過ぎませぬ。
ですがそのもったいなきお言葉。ありがたく頂戴いたします……」
雷神が一礼し、その場を去った後。
スサノオはすっかり憑き物の取れた、朗らかな表情になっていた。
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この後、古事記にも語られし天安川における、スサノオとアマテラスの誓約が行われる。
誓約の結果、スサノオの持つ十拳剣から、胸形三女神なる航海の安全を司る神が生まれ、スサノオに邪心がなく、海原を荒れ放題にしていた罪を悔いているという証が立てられた。
スサノオはアマテラスの誤解を解き、高天原に滞在する権利を勝ち取ったのだ。
しかしながらこれが、後の大いなる災いに繋がるのである……