四.八百合神・火髑髏(ホノドクロ)
怪力神タヂカラオの意識が戻った時、最初に気づいたのは周囲に充満する金臭さだった。
「…………はッ!?」
「お気づきになられましたか。タヂカラオ様」
タヂカラオが目覚め起き上がると、傍らには心配そうに彼を覗き込む、ふっくらした顔の女神──食物神オオゲツヒメがいた。
二柱のいる大地は灰色を通り越して黒く染まっており……何より特徴的なのは、周辺に点在する朱色をした無数の池であった。
「な……何だよここはッ……まさか、血の池……!?」
タヂカラオも黄泉の国の底に血の池地獄がある、という噂は聞いた事があった。
「いえ……わたくしも意識を取り戻した時、気になって調べてみたのですが。
この池の水は血という事はないようです。ただ、普通の水よりも鉄を多く含んでいるため、赤く見えるみたいですね」
タヂカラオはオオゲツヒメの冷静な分析を聞きつつ、自分の火傷の処置がなされている事に改めて気づいた。
痛みが残っていない訳ではないが、火を噴く泥の中を沈んだ割には全く気にならない程度であった。
「ありがとよ、オオゲツヒメ。あんたが……治療してくれたのか」
「応急処置ですので、大した事はありませんわ。
それより……こちらを召し上がって下さい」
オオゲツヒメが取り出したのは、彼女の生み出した稲・麦・粟などを混ぜた雑穀米であった。
「米のご飯に麦や粟を合わせる事で、貧血にも効果がある食事です。
タヂカラオ様は、先の戦いで出血が激しかったですし……密かに調理していたのですよ」
「おおっ、こいつはありがてえな。遠慮なくいただくぜ!」
タヂカラオはニカッと笑みを浮かべ、オオゲツヒメの差し出した椀の中身を平らげてみせた。
体内で調理済の食事まで生み出す事が可能だったとは、タヂカラオは内心驚いていた。飯に宿った穀霊が、タヂカラオの失った血液を取り戻し、疲労をも駆逐していく。体内の神力が活性化していくのをはっきりと感じた。
食事を終えるとタヂカラオは不意に立ち上がり、オオゲツヒメを庇うように周囲を見回した。
「……っと、食事の時間があっただけマシだったかもしれねぇが。
敵さんがおいでなすったみたいだぜ」
「……!」
「オオゲツヒメ。俺から離れるなよ」
点在する無数の血の池から、ぼうっと火の玉のようなものが湧き出し……一箇所に寄り集まっていく。
巨大な炎の塊となったそれは、雷光を纏うようになり……タヂカラオにとって見覚えのある姿になった。
「……てめえはッ……火雷!」
「久方ぶりでございますなァ、タヂカラオ」
イザナミに仕えし八雷神が一柱にして、筆頭格たる雷神、火雷。
上辺だけは馬鹿丁寧な口調だが、慇懃無礼という言葉が相応しく、タヂカラオを見下した笑みを浮かべていた。
「そちらの女神は確か、オオゲツヒメでしたかな?
わざわざ粟国から、遠路はるばるこのような穢らわしい所へようこそ」
「さっき、俺たちを引きずり込んだ泥は……てめぇの仕業か」
「いやいや。あの罠を仕掛けたのは火の神カグツチ様です。黄泉大神たるイザナミ様の命でして。
葡萄と筍を囮にし、あの周囲一帯を熱し続けていたのですよ」
火雷はオオゲツヒメに鋭い視線を送りつつ言った。
雷神の眼に、思わず彼女は後ずさりしてしまった。
「オオゲツヒメ。貴女はこう考えているのではありませんか?
『何故自分たちが意識を失っている間にとどめを刺しに来なかったのだろう?』と」
「…………ッ!」
「まァ、情けない話ですがオオゲツヒメ。貴女が目覚めるのは思いの他早かった。
こちらとしても戦うための準備が必要でしたのでね。
単純に到着が間に合わなかっただけですよ」
タヂカラオは気づいた。火雷の周囲の血の池に、彼以外の穢れの気配が参集しつつある。
「へッ。だったら俺が意識を取り戻して回復する前に、とっとと襲ってくるべきだったかもな。
この前やり合った時、お前は七柱がかりでも、このタヂカラオ様との真っ向勝負を避けるくらいの臆病野郎だったろう?
周囲に他の雷神の姿は見当たらねえ。
たった一柱で俺たちと再戦たぁ、無謀なんじゃあねーか?」
「ええ……確かに貴方の怪力は恐ろしいですよ、タヂカラオ」
火雷はあっさりと認めた。
「しかし、貴方にとって有利だった高天原と、ここ……我の管轄する、血の池地獄とでは状況が全く異なります。
今の貴方など、この火雷一柱のみで十分ですよ。それに……」
雷神が両手を広げると、血の池から無数の鬼が姿を現した。黄泉の国の獄卒、黄泉軍である。
「イザナミ様より指揮を任されたこの者たちがおります。
我らの力の真髄をご覧になれば、タヂカラオ。そのような軽口を叩く余裕もなくなる事でしょう」
黄泉軍たちは血の池の色に染まり……段々と身体が溶け出した!
ドロドロの赤黒い塊となった彼らは、見る見るうちに大きなうねりとなり、火雷の周囲に集まってくる。
やがてそこに現れたのは、全身黒光りする巨大な骨で出来た百足のような化け物だった。骨は真っ黒に染まり、全長はタヂカラオの数十倍はあろうかという巨体。頭部もまた、タヂカラオの背丈よりも巨大で禍々しい髑髏を形づくり、周囲には雷光と炎熱が飛び交っていた。
「我は……八百合神・火髑髏」
炎に包まれた黒い髑髏百足が、轟く雷鳴のような大声で吠えた。
「今の我の力は、あの時の七柱の比ではありませんよォ……!
果たして貴方は、そちらの足手まといの女神を守りながら、我を討ち果たす事ができますかなァ!?」
ゴロゴロと大笑いする火髑髏。
タヂカラオは迫りくる強大な穢れに戦慄を覚えつつも、肉体に闘志を漲らせた。
「見くびるんじゃあねーぞ、腐れ雷神め……
オオゲツヒメは足手まといなんかじゃあねえ。
思い上がってると痛い目見るぜ!」