二.ウズメ&ウケモチvs影鰐・前編
ウズメは目の前で起きた急展開を整理してみる事にした。
見渡す限りの青い海のど真ん中の孤島に倒れていた。
ウケモチ以外の皆とはぐれてしまった。
イザナミに仕える雷神と名乗る者が軍勢を伴って追ってきた。
雷神は軍勢を大口を開けて全て平らげてしまい、巨大な黒鮫に変身した。
(うん、なるほど。整理してみたけど訳がわかんないッ!)
敵の雷神──黒雷──は、自身の事を八十合神・影鰐と名乗った。
なお現代に置き換えると、雷神が変身した姿は「サメ」なのだが、当時は大きな口を持つ魚の事を総じて「ワニ」と呼んでいた。
古事記にもある有名な因幡白兎の逸話において登場した「ワニ」たちも、実際はサメであったと言われている(但し諸説あり)。
このため現代においても、島根県や兵庫県の一部でサメの事をワニと呼ぶ方言が残っている。
黄泉の国に青い海というのは奇妙に思えるが、淡群青の海水は沸点に近い高温であり、雷神が「海地獄」と称するだけの事はあった。
状況を整理している間にも、ウズメとウケモチに巨大すぎる影鰐のアギトが迫りつつあった。
海面から凄まじい高さを軽々と跳躍し、そのまま地面ごと二柱を飲み込むつもりなのだろう。
「ウズメ! 奴の動きをよく見ろッ!
ボーッとしてねえで避けろッ!!」
ウケモチが絶叫した。その手には桃弓を構え、葦矢をつがえている。
すでに臨戦態勢を整えている闇の神の姿が、ウズメの心を現実に引き戻した。
鮫から身を守るためには、動きを視界内に捉え、垂直の姿勢を保ったまま自然な動きをしなければならない。
鮫は正面にしか進めないため、前方への動きのみ警戒していればよい。また口を大きく開けるのも苦手なため、垂直に立っている獲物を捉えにくい。
たとえ海に落ちたとしても、手足をバタつかせたり水平に泳いだり、慌てて逃走する余りその姿を見失ってはならないのだ。
もちろん、ウズメもウケモチもまだ地上にいる。敵の動きには対処しやすい。
筆架叉を両手に構え、影鰐の放物線の軌道をしっかりと目に捉え、ウズメもまた跳躍した!
影鰐が下降する間際、ウケモチの放った葦矢がその左眼に突き刺さった。
ガギャアアアアッッッ!!!
影鰐は苦痛の咆哮を上げ、空中で身体を大きくよじる。
穢れを祓う力を持つ矢は、宿りし二柱の神──モモユミヒメとアシヤヒコ──の加護によって激痛を伴うのだ。
ウケモチの一撃のため、巨大なアギトの向きが大きく逸れたのが幸いした。
ウズメは寸での所で、合神の大口を滑るように躱す。彼女は跳躍しながら左の筆架叉を突き刺さった矢に引っ掻け、さらに高みへと跳ぶ!
すれ違いざま、影鰐の背中を右の筆架叉を使い切り裂いた!
(思ったよりも柔らかい皮ね……あたしの武器でも一応、傷つける事はできるッ)
初撃を回避し、反撃に成功したものの、影鰐はそのまま大顎を突き出し、さっきまでウズメたちが立っていた地面を飲み込みながら海中へと沈んでいった。
凄まじい波しぶきが上がり、空中のウズメに海水が飛び散る。
「熱っ!」高温の水を浴び、ウズメはわずかに顔をしかめた。
まだ原形を留めている孤島の一部に着地できたものの、影鰐は全く勢いを緩めていない。
攻撃は通じるが、あまりにも巨大すぎるのだ。
ウケモチやウズメの武器は小さすぎ、どれだけ突き刺せば倒せるかも定かではないが、奴の牙のほうは掠りでもしたら、それだけで致命傷になりかねなかった。
「イイイイ痛ェェェェエエエエエ!!」影鰐の本体である黒雷が吠えた。
「活きがイイなァァァ……だがお前らが、絶望的な状況である事に変わりはねェ!
逃げ場もないィィィ! お前たちの恐怖が伝わるゥゥゥ……最ッ高に美味い餌になりそうだァァァ!!」
漆黒の巨鮫は、今度は孤島を中心にして周囲の海をグルグルと回り始めた。背中のヒレが凄まじい速度で渦を作り、二柱の恐怖を煽る。
「アイツの言葉に惑わされてビビんなよ」ウケモチがウズメに言った。
「アイツら鰐は、こっちの恐怖心を察知したり、怪我をしたような動きをしていると嬉々として襲ってくる。
……怖くてたまんねえのは分かるが、冷静になって奴の動きから目を離さないのが大事だ」
「ウケモチくん……詳しいのね」ウズメは感心して言った。
「オイラも昔、海に舟を出した事があるからな……鰐とは何度か出会ってるんだ」
黒鮫の姿とはいえ雷神の端くれだ。もっと狡猾な動きをするかという懸念もあるにはあったが。
どうも黒雷は、食欲という分かりやすい本能に忠実に動くようだ。先ほどから取っている行動も、ウケモチが知る鮫の習性の域を出ていない。
「アイツが食欲に忠実ってんなら……多少はつけ入る隙があるかもしれねえ」
「……どういう事?」
「アイツ、なんでオイラたちが意識を取り戻すまで襲って来なかったと思う?」
「えっと、それは……」
「さっき言ってたよな。『恐怖が伝わると美味い餌になる』って。
つまり意識を失った状態のオイラたちをただ食っても、あいつにとっちゃ美味くないって話だ」
「そっか……それで最初に遭った時、意識が戻って良かった、みたいな事を言ってたのね、アイツ」
最初の大跳躍はこちらの恐怖心を煽るための威嚇であり、今の旋回行動は、獲物を引き裂いて弱らせるための準備行動なのだ。
「あんまり悠長にしちゃいられねーな。普通の鰐よりデカすぎて、あと何回か島を削られたら立っている場所がなくなっちまう。
海に落ちたら、いよいよ詰むぜ。近くに岸は見当たらないし、何より海水の温度が高すぎる……
アイツをどうにかできれば、みんなと合流する事もできなくはねーんだがな」
「そうなの? だったら……何とかしなくちゃね」
ウズメは疲労の色を滲ませながらも、弾んだ声を上げた。
「スサノオくんや、ツクヨミちゃん……それにタヂカラオ、オオゲツちゃんとも、無事に顔を合わせたいもの」
彼女の言葉に、ウケモチは内心驚いた。
「ウズメ……お前、ツクヨミの事を覚えているのか?」
「え?……なんで? 忘れる訳ないじゃない」
ウケモチは訝った。ツクヨミと同等の神力を持つ者でなければ、ツクヨミが姿を消すとその記憶も消える筈なのだ。
しかし今のウズメは、未だにツクヨミを覚えている。先刻、黄泉醜女を倒すために月の神の力を借りて恍惚状態になった事が関係しているのだろうか。
(もしかすると……ツクヨミも気づいていない、記憶に留める事のできる条件ってのがあるのか……?)
残念だが、悠長に考えている時間はなさそうだった。
影鰐が旋回の幅を狭め、孤島ごとこちらを齧り尽くそうと迫っている。
ここを乗り切らなければ、再会どころではない。




